サラの行動は、意地悪というより、家系の約束(契約の継承)を守るための決断として描かれている。
ただし、人間的な苦しみ、嫉妬、不安も隠さずに描かれており、「完全な義人」と理想化されておらず、単純化できない振り幅が大きい複雑な女性だったのだろう。
 イシュマエル追放の理由(創世記21章)に、イシュマエルがイサクを「笑った(メツァヘーク)」ことがきっかけとされます。
からかう、侮辱する、継承権を脅かす行為など複数の意味を持ちます。古代近東では、長子が家督を継ぐ。イシュマエルは長子であり、イサクの立場は非常に不安定でした。
サラ「この女の子は、私の息子イサクと一緒に相続人になってはなりません」
 これは単なる嫉妬ではなく、イサクを通して子孫が祝福される契約が実現されるためと読めます。タルムードやラビ文献では、サラはイサクの未来のため、契約どおりになることを望んだと書かれています。神はアブラハムにこう言います。「サラの言うことをすべて聞き入れよ」
 同時に、神はイシュマエルも祝福すると約束し、見捨てるのではなく、別の大いなる民族を与える道を用意しています。

 

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 恐れ、ハガルへの嫉妬、深い傷と不安、笑いを抱えた人間としての物語。
不妊の苦しみと焦り(創世記16章)
「サライは不妊の女で、子供ができなかった。」(創11:30)。女性の価値は子どもを産むことでした。不妊は、社会的地位の弱さ、家系の断絶、経済的不安、霊的な呪いとみなされることもありました。「しかもサラは月のものがとうになくなっていた。」(創18:11) ヘブライ語でも「女性としての道は終わった」といった表現がされています。חָדַל (ḥādal)「やむ」「終わる」「停止する」לִהְיוֹת (lihiyot)「〜であること」אֹרַח (’oraḥ)「道」「行程」「習わし」כַּנָּשִׁים (ka-nashim)「女性たちのように」「女性の習わしとして」

 焦りの中でハガルを差し出す決断は、神の約束を自力で実現しようとする試みであり、その結果、裏目に出て、新たな混乱を生みました。
ハガルが子を産み、これで役目を果たしたわけではなく、ハガルが立場を強めました。
サラは心の中で笑った。これは信仰が薄いというより、ありえない。裏切られ傷つくことがないように期待しない、あきらめだったのだろう。
 90歳でイサクを出産「神は私に笑いをお与えになった」(創21:6)
イスラエル民族は「奇跡の子イサク」から始まる。これは民族のアイデンティティ形成に深く関わります。

 旧約の預言者の召命は外的規範ではなく、内的呼びかけでした。
 モーセ「ああ主よ、私は昔から、またあなたが僕に語りかけられてからも、話し上手ではありません。私は口が重く、舌が重いのです。」(出4:10)モーセは召命に対して強い抵抗を示し、「どうして私が」と繰り返し主に訴えます。モーゼは罪を犯したが、もう十分に準備できた、成長できたと「行け、わたしはあなたを遣わす」。
 ヨブは、すべてを失ったとき、「なぜ私は胎を出て死ななかったのか。」ヨブ3:11)「なぜ私は生まれたのか」と問うた。
 ギデオン「私は最も弱い家の者です」(士6:15)「わたしの一族はマナセの中で最も弱く、わたし自身も父の家で最も若いのです。」社会的地位の低さ、自己卑下に「わたしがあなたと共にいる」と召命を与える。
 エリヤ「もう十分です。わたしの命を取ってください」(王上19:4)バアル預言者との対決後、燃え尽き、深い絶望、孤独感に沈む。「わたしは先祖にまさる者ではありません」エリヤは主流派(老舗)ではない支店のギルアデの出身だった。
 イザヤは、聖なるものに触れ、自分は至らないと痛感、自己卑下「災いだ、わたしは滅びる。わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者なのに、わたしの目は王なる万軍の主を見てしまった。」(イザ6:5)それでも生かされている。
 エレミヤが若くして召命を受けたとき、「ああ、主なる神よ、私は語ることができません。私は若すぎます。」(エレ1:6)若さゆえの無力感、語る資格への懸念に「あなたの口にわたしの言葉を授ける」「わたしはあなたを母の胎に形づくる前から知っていた」存在の深層からの呼びかけ。
 ヨナは使命から逃げた。「ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。」(ヨナ1:3)
 目的地や使命に気づかないまま生きていて、ある日ふと、問いが生まれる。その問いは、「使命の前兆」「存在の目覚め」「人生の深層が開く瞬間」として描かれます。それらが覆されるような事態が起こらない限り、私たちの日常は、そうした当たり前が続いてゆきます。

 「両親を敬う」「目上の人を敬う」ことは、道徳でも儒教でも推奨されるものです。両親が子に対して本当の愛情を注ぎ、また子が自らの人生を与えられたこと、先祖から受け継いだ思い出、宝物を実感すれば、自ら敬い、感謝、報恩の気持ちは生まれるものです。
人は心の底で人間を信頼したいと願っていて、自ら目的を持てば、勉学も仕事も懸命に努力することを求めるし、できれば誰かのために生き、世の中の役に立ちたいと思っているのです。
 もし、そうできないとしたら、できない理由があるからです。かつて良いとされた生き方が変化してしまったとしたら、そこには理由があり、大きな意味があるのでしょう。
 現に、過去に大切にされたやり方で、多くの不自由が生まれたことも事実です。家長制度の中で多くの女性や子どもたちが軽んじられ、不当に扱われてきました。社会の歪みがもたらされたのも事実です。

 親が信じていた人に裏切られた、どんなに努力しても認められなかった、不遇だった。子どもは、自分にはそれほど理由がなくても、いつの間にかその感情を自分のものとして取り込んでしまいます。これは「感情の遺伝」とも呼べる現象。親が世界を危険だと思えば、子も危険だと感じやすい。親が他者を信じられなければ、子も疑いやすい。親が自己否定的なら、子も自分を肯定することは難しい。こうした伝播は珍しいことではないでしょう。
 逆に、いつも愛情を注がれ、大切にされ、認められ、安心して育ってきた人は、世界を肯定しやすい心を持ちます。恵まれた生活の中で育った人は、ものごとを鷹揚に受けとめ、他者を信じやすい傾向があります。
 心の成り立ちは「親の感情の残響」から生まれる。子どもは親の人生を心の系譜として受け継ぐ。

 

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 自分自身が深く関わっている現実から離れているとき、例えば、家族の気持ちがどこかすれ違っているのにどうすることもできずに悩んでいる人にとって、課題をテーマとする場に参加しているときや、外で友人や知人と出会っているときは、家族の問題を客観的に捉えやすくなります。自分の感情が静まり、心の状態がニュートラルになる。「これは課題だ」と冷静に受けとめられる。この状態では、家族の問題は、「まだ変えられるもの」「取り組む余地のあるもの」として見えます。
 ところが、外ではそう思えても、自宅に戻り、家族に面と向かい、そこで繰り返されている感情の流れに身を置くと、心から「課題」だと受けとめることがむずかしくなってしまいます。事態を冷静に見ることができず、感情が先に反応してしまう。
「夫と話し合ってもむずかしいし、子どもたちは自分のことだけで家のことなんか無関心。家族が変わるのは無理…」
そんな想いが出てきてしまって、変化の可能性より諦めが先に来る、もうすでに結論が出てしまった事態として受けとめてしまうのです。これは意志の弱さではなく「場の力」によるもの。家族という場には、強い「エネルギーの慣性」がある。役割の固定、感情のパターン、期待と失望の繰り返し、無意識の反応、それまでの経緯に縛られてしまうのです。
 また「レッテルを剥がす」ことが難しいのは、心から納得しても、そのフィルターを通して家族を見る。理解しただけでは現実は変わらない。実は、自分に関わるすべての出来事や事態を「課題」と受けとめることができるわけではないということです。
 「課題」と受けとめやすいことがある一方で、なかなか「課題」とは思えないものがあります。どうしても「課題」として受けとめられないものもあります。

 「道徳」とは、祖先や父母を敬い、兄弟は仲よくし、夫婦は仲むつまじく、友情を大切にし、信頼を深め、行動は慎み深く他を思いやり、学問をよく修め、仕事を習い懸命に努め、知と徳と技を磨き上げ、公の利益のために尽力する。このような生き方に、異議を唱える人はいないでしょう。そんなふうに生きることは、良いことではないか。
 かつてわが国で大切にされた道徳観は、孔子や孟子が説いた儒教の考え方に基づく人倫(じんりん)であり、これまでの歴史の中で、社会の秩序を守るために形成された「こうすべき」「こうすべきだから、そうする」という外的基準。家族・社会の安定を守るために非常に有効でしたが、外側から与えられるもので、役割や関係性を固定化しやすく、自由を奪う側面も持っていた。

 過去ではなく、未来を志向する。過去に戻ることはできない。未来に向かう生き方として再定義することは、過去の延長上にはない。イデアはまだ見ぬ未来からやってくる。より良く生きるには、同じように見える部分はあっても、道徳観とは違う生き方です。それは、規範としてそうすべきだから、そうするではありません。誰かから、どこかから押しつけられて、そのようにするものではなく、自ら願って、そのような生き方が生まれてくることが大事なのです。源にさかのぼって、より深い本質を生み出してゆかなければならないということです。これは、外側からの規範ではなく、内側から自然に湧き上がる願い・呼びかけ・意味を重視する生き方です。両親を敬うことも、努力することも、誰かのために生きたいと思うことも、本来は自然に湧き上がるものであって、押しつけられるものではない。

 家族である(両親や兄弟血縁)、人生の伴侶である夫や妻、また一緒に仕事をする上司や同僚、同じ夢を実現しようとする仲間(友人・協力者)との出会いがあります。しかし、そうした大切な人との関わりがねじれてしまうことは、よくあることです。
親との関係は「自分の根源的な受容・自尊心」を学ぶ、兄弟との関係は「競争・比較・役割」を学ぶ、伴侶との関係は「相互性・成熟・信頼」を学ぶ、上司や同僚との関係は「社会的な能力の発揮」を学ぶ、仲間との関係は「協調・具現化」を学んでゆくが、そして、そこに決定的に関係がねじれた状態を続けることで、目的や与えられたミッションを果たせなくなってしまうことも少なくないのです。
 「一見ミッションに関係ない人」が、実は鍵を握っている理由として、目的成就やミッションに直接かかわる人でなくとも、その人が自分の人間関係のパターン(不足・未熟・歪み)の鋳型を引き出すからです。過剰に気を遣う、過剰に期待する、過剰に距離を取る、過剰に役割を背負う、過剰に自己犠牲をする、こうした人間関係の癖が、再現されてしまう。
それが、ミッションの成就を阻んでしまうことがあるということです。
 関わりの結び直しとは、単なる人間関係の修復ではなく、私たちが人生のミッションを果たすために欠くべからざる「出会うべき人」との関わりを本来化するテーマと言えるのです。そしてそれが自己成長にもつながる、その人を通して自分が向き合うべき「内的課題」でもあります。

 心理学では、人は押しつけられた規範”では動かない。「外的規範による行動は持続しない」と明確に示しています。持続する行動は、自分の価値観、自分の願い、自分の意味づけから生まれる。
アジャイル思考は、未来に向かって再定義する。
 世界の映り方、世界をどう映すかを決めるレンズは、同じ出来事でも、捉え方が違えば意味が変わる。同じ人でも、捉え方が違えば印象が変わる。同じ人生でも、捉え方が違えば幸福度が変わる。ユング心理学の投影、仏教の「心が世界をつくる」に近い。
 つまり、私たちは「世界を見ている」のではなく、自分の心に映しだされた世界を見ているのです。心に映る世界は無意識に形成され、無意識に人生を左右する。だが、そのまま人生漂流されて生きるのはもったいない。その心を照らす恩寵の光、光に向かおうとする志向性は神から来る。

 家族のために友人のために誰かのために、生きることは、結局は自分の心を豊かにし、自分の人生を良くすることにつながる。その人のためにやっているように見えるが、自分のためになっている。その方々との絆が深まって、心の交流が生まれて、結果として、人生に幸せを運んでくる。我と汝の関わりを望まれた神が私たちに与えてくださった愛の反映である。
より良く生きたいと願うからこそ、人は新しいことに挑戦し、やったことがないことに挑戦することは壁にぶつかる。その挑戦によって常に良い結果に導かれるとは限りません。充実、満足、希望もあれば、落胆、葛藤、後悔もあります。共に歩む神がおられたら、落伍者になることは決してあるまい。絶望の淵に沈んだままではない。
人生の豊かさ、厚みというのは、それらの経験が全て消えてしまったら、味わってきた数々、それらが全部消えてしまったら、人生はどんなに空虚になるでしょうか。
 豊かさとは財産や名誉、単なる成功ではない。歩み出すには、自分に足りないところがあるかもしれない。だが、すでに与えられているものに目を向けてみると、感謝から始めることができる。