Ⅱ 他者とのかかわりにおける救い <社会>
開かれている対話
2・対話の構造
逆説的なようですが、憎悪を抱く相手は自分にとって関わりが深い相手でもあるということです。憎悪は、情念の中でも最も激しい粘着質を想起させますから、確執には膨大なエネルギーが費やされます。
ブーバーの指摘のように、自分の中で相手との関係を固定化するのではなく、変化を許す本人の認識(心の捉え方)が必要です。憎悪を抱く相手は全く変化を許されず、過去の中で止まってしまった存在「それ」である。
憎悪のエネルギーが集中し持続するにつれ、その存在を完全に否定することができない葛藤がある。ならば、存在の尊さに目を閉じるのではなく、「汝」に新しい生命を与えなければならない。変化と関わりの日々の中で祈るしかないのです。
「神はまたときに、まったく消化不可能な石のようなものを祈りの糧として与えられる。そのときには、真珠貝のことを考えるがよい。真珠貝は、その体内にたまたま消化不可能な砂粒が入ってくると、それを吐き出さずに長く体のなかにおさめ、絶えまなく、体液を出してそれを包んでいくうちに、その砂粒を美しい真珠にすると言われる。自分の心のなかの反感や憎しみは、消化不可能の石のようなものである。しかし、それを心のなかにおさめて、祈りの心で包んでいくうちには、いつか愛の真珠となる」(45)
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(44)ブーバー・M.著 野口啓祐訳「孤独と愛―我と汝の問題」創文社 昭和36年(1961) P23-24