Ⅱ 他者とのかかわりにおける救い <社会>
  開かれている対話
  2・対話の構造

「汝と我」の関係を望んでも、呼応できない時がある。人間は、いかなるときも、絆を実感できるとは限らない。憎しみに閉ざした心は、真実を分からなくさせてしまいます。それをどう受け止めるのか。
 「-われわれは、愛がひととひととを結びつける唯一の関係であるかのように語る。しかし、正しくいうと、それは関係の仕方のわずか一つにすぎない。なぜなら、ひととひととの間には憎悪も存在するからである。・・憎悪は、相手の全体を見ない。その一部分を見るにすぎないのである。・・だから、全体を見て、しかもそれを否定するものは、相手か自分か、いずれか一方を否定しなければならない。われわれはこのせっぱつまった関所にきたときはじめて、『関係する』ということが、自分と相手と双方を同時に『肯定すること』だということを知るのである。また、それを知ったときはじめて、関所の重い扉は開かれるのである。相手を一途に憎悪する人間は、愛も憎しみもない人間より、はるかにいっそう関係に近づいている」(44)とブーバーは言う。
 逆説的なようですが、憎悪を抱く相手は自分にとって関わりが深い相手でもあるということです。憎悪は、情念の中でも最も激しい粘着質を想起させますから、確執には膨大なエネルギーが費やされます。それでも相手の存在が気になって、無視できない。特に家族は関わりの深さゆえに怨憎会苦(おんぞうえく)、恨み憎む相手にも会わなければならない苦しみを抱くことが多い。近視眼や先入観のため、第三者の立場から見ることが難しい、要求(期待)の違い、執着を帯びた愛など原因がありますが、根は深い。

 

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作権フリー (44)ブーバー・M.著 野口啓祐訳「孤独と愛―我と汝の問題」創文社 昭和36年(1961)  P23-24