2015年10月30日、「金スマ」に、渡辺和子シスターが出演されました。
重要なのは、聖書をじっくり読んだことはないが、なんとなくは知っているという人たちが、非常に共感し、涙ぐみ、終了後には盛大な拍手があったことです。
キリスト教、特にカトリックは、福祉に力を入れていることもあって、障がい者、哀れな高齢者のために祈る習慣があります。
クリスチャンが、未信者の前で、祈りをあげたら、(???) (なんで)と戸惑うだろう。
気まずくなり、好意には感謝しつつ、その場を離れたくなるだろう?
ゼノ神父さん(正しくは修道士だが、通称)が、目の前で「主よ 我らを憐れみ給え」「神の子羊 我らの罪をお許しください」と祈られ、意味がわからなくとも、何か心打たれるものがあるでしょう。ゼノ神父は貧者救済に、愚直に質素に生きられた方だからだ。
「マザー・テレサさまは、人を惹きつけるものをお持ちだった」と渡辺和子さんは回想されています。
おそらく、わたしが 生前のマザー・テレサにお会いしても、あまり多くを語らず 「キリスト」「イエス」「主よ」祈りのことばを唱えながら、活動するでしょう。
そこで、(やっぱり、召し出しを受けたマザー・テレサは人間ではない 別格だ) (浮世離れした聖女)と思うかもしれない。
身近にいた写真家の沖 守弘氏の回顧、通訳を務めた渡辺和子さんの言葉から、人間としてのマザー・テレサの一面を知るのである。
渡辺和子さんが、
「優しく穏やかな人と思われるでしょう。目の鋭さがあった方」
とおっしゃられた。
マザー・テレサは、現実に痛みを感じ 苦しんだ。守られた修道院とお金持ちの子女が通う学園から 外に出た。
荒野に出たイエスさまが 自らの信仰を表明したように、イエスさまの心は揺らぐことなく、サタンにお言葉を返されたように、マザー・テレサも どこまでも吸いこんで、イエスの心を生きようとされた。
「このことに関しては、イエスの教えはできます。ですが あのことは ああなので、こういうわけで …(できない)。そうはいっても 理想論なんですよ」とできない理由を探すのではない。
天のみ旨 地に行われんがために。
渡辺和子さんは、典型的なクリスチャンの家庭から程遠い育ち。キリスト教を知ったのは、高校の時。洗礼も大反対された。
お母様から、一番になるように言われ、常にトップ 首席。できないと怒られ、努力家で、シスターになる前はバリバリのキャリアウーマンだった。
クリスチャンの家庭は、人と成績を争わない、負けるなと競争することもなく、比較することもなくすべてを受け入れ愛し、隣人のために祈る、人に施しを与えるように教える、子供にも穏やかな温かな愛情を注ぐイメージだったのに…(こちらの勝手なイメージですが…(笑))
渡辺和子さんのお父様は、軍人で、むごい殺され方をされ、和子さんはそれを目前で目撃していた。ご家族、誰も涙を流さなかった。
(軍人の家族は涙を見せてはいけない。世間に恥じないように) (ナンバーワンになれ)、その価値観の中で育ち、シスターになった。
長年 教育に携わっておられる渡辺和子さんが、どんなまなざしを注がれているのか、興味を惹かれました。
教壇に立って、向き合うのは、全員がクリスチャンばかりではない。 ご自分の言葉で語らないと響かないのでしょうね!
不本意ながら入学した学生に寄り添う。
将来の幸せにつながるためにも厳しさは必要。
放置して、後で困るのは その人ですから。
奥にその人を想う心があれば 伝わる。
学生に聖書を覚えてもらうより、「生きていく力」の道をつけるためのお手伝いを渡辺和子さんはされているのでしょう。
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わたしが思いましたのは、
温室のように世間の荒波から守られたクリスチャンの家庭環境ではなかった。
望まれて生まれてきたというより、お母様は産むのを迷ったそうです。それなのに 渡辺和子さんに対しての お母様の熱心なしつけ 過剰な期待。(他のご兄弟にもそうであり、そういう家風なのかどうかはわかりませんが…)
赤い糸を信じる受け身のけなげな少女、その境遇から救い出してくれる王子さまを待ち続ける、まさにおとぎ話のような他力ではなく、
自らの意思で行動を起こすことで、運命を変える。自分が変わることで、挑戦し、飛びこんでいく。
それと、流れにのって、(めでたしめでたし)ではなく、願いに向かって前向きだが、途中で正反対の価値観、正反対のタイプの人との出会いで、葛藤、反発しながらも、成長することで、古き革を脱ぎ捨てていく。
人は苦しまないと、変われないのだから。
「笑顔でいましょう」といわれて、そうしても、
すぐに元に戻る。
渡辺和子さんは、笑えなかった時があったそうです。徹底的に味わったからこそ、次の次元にいった。
渡辺和子さんが、お父様のことで 加害者を許せない心境を吐露されました。
それだけ お父様を愛されている。ご自分のことでしたら、
ゼノ修道士は何を言われても「ゼノしに(死ぬ)ひまない」と 優しい 飄々とした目だったそうです。
要するに、自分のことなら、心の、気持ちの持ちようで、なんとかなるが、
例えば、目の前で孫を殺された祖父、娘を殺された母。戦火の中で今も起こっているかもしれない。
それに対して、悲しまない人がいたら、わたしは その人を理解はできない。
「父は神様のみもとに 天国に行かれました。父は神の恵みを受けました(だから大丈夫)。ああ かわいそうに。サタンにそそのかされて 罪を犯したかわいそうな人(二・二六事件の兵士)のために祈ります」というような言葉を聞いたら、
(シスターなんだなぁ)と そこで終わり。立派だけど何も伝わってこない。悪いけど 心の中で泣いていたとしても (シスターはすごいなぁ)と思うだけ。
渡辺和子さんは、聖職者である前に、人間的な郷愁が強い。喜び、悲しみ、怒り、恐れはあって当然。だから人の気持ちがわかる。心のひだがたくさんおありで 人間理解が深い。
これが 渡辺和子さんのすごいところで、だから言葉は人の心を打つ。
渡辺和子さんの命の使い方に「雑用という用はない」があります。
「お皿を並べるのでも、その時に、何を想うのか、考えるのかが大事。
義務、仕事だからのやらされ感では、神様に与えられたその時間をムダにしている」
ということをいっています。
効率を考えて行動するのとは真逆の考え方です。
境地を示されているのだと思われます。
信仰を証そうと闘うのではなく、微笑みと愛あるお言葉で 現実と向き合い、わたしたちに含蓄ある言葉を誠実にくださる。共に響き合う共感性の高い求道者。
それが シスター渡辺和子さんなのかなと。
ノンクリスチャンでも、すんなりと読める渡辺和子さんの言葉、本。
様々な矛盾を突きつけられたから、深まったのだと思います。