Ⅲ 神のもとにおける救い <神>
  聖書の神
  3・イエスの愛

 「本当に大切なものは何だろうか」これを悟った時、光の使徒となる。
フィリポの対話は、エチオピアの高官の荒みを癒しました。霊が言えば、馬車を追いかけるが、自分から乗り込んで説得するのでもなく、洗礼を強要するのでもなかった。フィリポのすがすがしい喜びに、高官は寂しい道を歩いていた過去の自分を捨て、喜びにあふれて旅を続けました。

 イエスは生前、アンデレとフィリポに、永遠の生命に至る、について話されたことがあります。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハ12,24)自分の名前が残り、功績が残らなければ落ちるのはいやだと麦にしがみついていれば、腐ってしまいます。
高官は去勢のため子どもがいない。ユダヤ教の割礼を受けられない状態で「卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。」(イザ53,7-8)の心境でした。
 エルサレムから、2,000㎞の帰りの道程の途中の辺境の地ガザで高官はイザヤ書を唱えていた。女王の財産を全管理する政府の要職にありながら、異邦人であるため、エルサレムの礼拝では、エルサレム神殿の周囲はいくつもの階層の壁に阻まれ、入れたのは、更に外側の庭だった。馬車は裕福な旅人を示し、強盗に遭うリスクもあった。
 自分のために泣いて欲しい、ひとりぼっちにしないでとメェーメェー泣いている羊。迷い出た一匹の羊でも救われたら、大きな喜びが天にある。これらの小さい者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない。(マタ18,12-14、ルカ15,4-7)

 

著作権フリー