最近の日本社会は、ボッコボコにバッシングできる相手を探してうろつくハイエナのようですね。

 

 SMAP独立解散騒動やベッキー・ゲスの極み不倫騒動から始まって、甘利大臣金銭問題、宮崎議員や狩野英孝不倫騒動、乙武不倫、コメコメ不倫、とにかく元気な安村不倫、

元巨人の清原覚醒剤、巨人軍選手の野球賭博、バドミントン桃田選手の違法カジノ、

ショーン川上学歴詐称、

 東京オリンピックメインスタジアムの聖火台問題、舛添要一都知事の湯河原公用車使用、

などです。

 

 この年初からの怒涛のような芸能界のスクープ合戦について芸能人などの中には、次は自分ではないかと戦々恐々と怯えている人の声もチラホラ聞こえます。

 

 もちろん「週刊文春」がすご過ぎるということもありますが。

 

 しかし、熊本地震では、支援を訴える芸能人を「売名行為」などと非難するなど、やり過ぎの一面もあります。

 

 国立競技場の聖火台問題も、ひと頃は、一生懸命バッシングしていましたが、聖火台はオリンピック開会式の演出に合わせて移動式になるケースが多いことが分かると、スーッと批判が消えていきました。そんなことは少し調べればわかることなのに、バッシングできるネタを見つけると止めどもなくなるようです。

 

 また、舛添さんが週末ごとに帰っていた「湯河原」と言うと、いかにも温泉地のような語感がありますが、東京では神奈川や埼玉、千葉など隣県だけではなく、栃木、茨木からも通っている人は多くいます。

 湯河原の1時間半の移動時間がおかしいというと、首都圏の平均的な通勤時間はほとんどおかしいですね。

 

 「日本人はいつからこのように人を攻撃ばかりして喜んでいる民族になったのか?」と疑問に思っている人は多いのではないでしょうか?

 

 その理由として、ツイッターやフェイスブックなどSNSが普及したことにより、個人が情報を発信しやすくなったからだと思われる人は多いでしょう。

 

 しかし、本当の理由は、日本人が集団全体の和を尊重し、個人よりも集団全体の利益を優先する民族だからです。

 

 つまり、マイナス面を強調していうと、日本人は、同調圧力が高く、出る釘は打たれ、ルールやオキテ破りに元々大変厳しい民族・国です。

 

 プラス面を強調していうと、道徳性・モラルが高く、モラルハザート(モラルの総崩れ)による暴動などが起きにくく、日本と比べれば外国は強盗の発生率が600倍とか、殺人の発生率が数十倍とか聞いて、「やっぱり日本が一番安心ね」とことあるごとに日本の治安の高さと平和に感謝することができます。

 

 日本のように、集団全体や国全体、公の利益を、個人の利益をよりも優先する社会は、個人主義の国、つまり個人の利益を集団全体よりも優先する国よりよっぽどまともだと思います。

 しかし、日本では、いじめやシカト、村八分などが非常に陰湿で、しばしば壮絶ないじめに発展することがあることもよく知られているように、少しでも集団全体の調和を乱す者に対しては、ボッコボコにバッシングしても大丈夫だ、という暗黙の民族的了解があるという背景があります。

 

 美輪明宏さんが言われていたように、「芸能界は大昔から上げるだけ上げておいて、一気に下げるところだ」という言葉があります。

 

 つまり、「上げて」おいて「下げる」のは、最近に始まったことではなく、昔からあることであり、また、日本人の民族性に根差したものなので、何か、この傾向を批判したからといって、治るものでもありません。

 日本人の壮絶な異種攻撃他者排除の文化と、全体の和を尊重する文化は、同じ特徴の裏と表を反対の方向から表現したものなのです。

 

※ 日本人にとっての「聖戦・ジハード」は、「集団全体の調和を乱す者は攻撃・排除すべき」というものです。

 

 このため、日本人のバッシング(ジハード・聖戦)はブレーキがきかなくなるのです。

 

 日本人は、世界の中でも、このような稀有な特徴を持っている民族であるという自覚を持って、失敗した相手を批判・攻撃する時には、ここぞとばかりに「水に落ちた犬に石を投げ込む」ようにではなく、「傷口に塩を塗りこむ」ようなやり方は慎むように、少しブレーキを掛けるよう心掛けた方がいいように思います。