昨日のブログで書いたキース・エマーソンの死因が、どうも自殺だとのこと。その理由が、指が不自由になり、キーボードが自由に演奏できないことから、精神的に追い詰められていたとのこと。残念です。しかし、ELPの作品は永遠です。音楽も含めた芸術というのは、その創作者が亡くなっても永遠です。それは骨董も同じこと、創作した人が亡くなっても、一定の評価を受けたものは、骨董あるいは古美術として、その所有者は変わっても、伝世品として、後の世にまで伝えられていきます。
さて、久しぶりに靖国神社の骨董市をのぞいてみました。半年ぶりでしょうか。業者さんの数も多く、2時間ほど見て回りましたが、気にいったのは熊本の人吉の郷土玩具「きじ馬」でした。
もう四半世紀近く前になりますが、当時、30代半ばの私は熊本に勤務していました。3年間住みました。今でこそ熊本は「くまモン」の活躍で、その知名度があがりましたが、当時はそれほどではなかった記憶があります。また、肥後もっこすの県民性は強く感じました。
お城好きな私にとって、熊本城は何度、訪ねても飽きることはありませんでした。熊本城は加藤清正が築城しました。加藤清正自身は今の愛知の出身ですが、肥後の人々に愛されたようです。いまでも、加藤清正といえば熊本の人々が最も愛する歴史上の人物です。肥後言葉で「武者がよか」といいますが、この武者というのは加藤清正かもしれませんね。
加藤清正の次の代に幕府によって、加藤家は断絶され、代わりに細川家が熊本を治めることになります。石高は確か50万石前後だったかと思いますが、これだけの石高があり、しかも江戸初期から幕末まで細川氏が肥後の大半を治めますが、そのせいか、当時でも城下町の匂いが町のあちらこちらに残っていました。西南戦争の戦場跡を写真で記録した重富写真館で家族写真を撮ったことなど、夏目漱石の住んだ家もしばしば訪ねたものです。あるいは、江戸時代から続くという大きな料亭で食事をしたことなども思いだされます。
秋の季節だったと思いますが、人吉の球磨川沿いの温泉旅館に泊まりがてら、人吉を訪ねました。人吉は、鎌倉時代にまで、その家系がさかのぼる相良氏の城下町です。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の「肥薩の道」で人吉を訪ねた文章を読むことができます。人吉では、当時、まだ幼かった息子を連れて、人吉クラフトパークを訪ねた記憶があります。そこに大型の「キジ馬」が置いてあったことを思いだしました。また、球磨川沿いに走るJR肥薩線の車中の窓から見える秋の陽をあびる照葉樹林が印象的でした。
さて、人吉の「きじ馬」ですが、その由来は、壇ノ浦の合戦で敗れた平家の落人たちが、人吉の地にたどり着き、作りはじめたそうです。人吉の「花手箱」も似たような謂れがあるそうです。
まあ、その由来はともかく、平家の落人伝説で思い起こされるのが、筑後川の河童伝説です。私は20代のときに、福岡に勤務していましたが、筑後川の田主丸というところは河童伝説が伝わることで知られています。かれこれ30年以上も前になりますが、その河童伝説に関心をもち、調べたことがありますが、大真面目に「私は河童を見た」と語る人たちがいました。そして、筑後川の河童も平家の落ち武者伝説と多いにかかわりがあることを知りました。
その後、熊本も福岡も多いに変貌を遂げたかと思います。はたして河童伝説やら平家の落ち武者伝説はどうなっているのでしょうか。
如庵