骨董亭如庵 第35回 | michael-thのブログ

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 さて、今夜は、安土桃山時代になぜ茶道があれほどの隆盛を極めたのかを経済的な側面から考えてみたいと思います。
 手がかりは、私の手元にある安南焼の抹茶茶碗です。
 安南焼は、今のベトナムあたりで焼かれた陶器です。私の手元にあるのは、赤と緑の繊細な模様が特徴です。ところどころに黄色のポイントが入っています。また、茶だまりらしきものがないということは、メシ茶碗として作られたものが、日本にもたらされて、抹茶茶碗として使用されたのではないでしょうか。
 中世において、東シナ海や南シナ海での日本列島から中国の沿岸、東南アジアでの民間レベルでの交易はかなり盛んだったといわれています。室町時代から安土桃山時代においては、堺の町は交易で栄えたのは、皆さん、ご承知の通りです。室町将軍家の東山御物は、その多くが中国などからの輸入物でした。天竜寺船というものを出して、盛んに中国の焼物を輸入していました。
 織田信長の時代は、世界史では大航海の時代にあたります。スペインやポルトガルの南蛮人と呼ばれる人々が交易あるいはキリスト教の布教のためにやってきました。なぜやってきたのかを考えるところで、注目すべきは岩見銀山です。日本でとれる銀の産出量はかなりのもので、当時の世界の何分の一かを占めていたといいます。同じ時期には南米のボリビアのポトシ銀山でも、かなりの銀がとれたようです。つまり、日本は銀の産出国として、当時の世界の中では豊かな国だったのではないでしょうか。
 さらに、それ以前をみると、奥州、藤原氏の中尊寺の金でできた建造物も見逃せないでしょう。マルコポーロの東方見聞録で欧州では、海の向こうに金と銀の豊かなジパングという国があると思われていたのではないでしょうか。だからこそ、リスクを冒してでも、南蛮人たちは、日本列島へやってこようとした、そうした経済的な豊かさの中で、日本の茶の湯という”豊かさ”を感じさせるものができていったのではとないかと私は夢想します。
 茶の湯といえば、侘び寂び、千利休のイメージです。また、茶と禅など、その精神性を評価したのは、岡倉天心の「茶の湯」でしょうが、私は、そうした経済的な豊かさ、つまりゆとりがないと、文化というのは花開かないと思います。バブルとまではいいいませんが、そうした経済的な豊かさの中で茶の湯が花開き、その精神性を高めたのが利休だと思います。ただし、これは歴史上のifですが、織田信長が本能寺で亡くならなかったら、その後の茶の湯がどう展開していっただろうかと思います。ある部分では、秀吉が信長流の茶の湯を継承したともいえるでしょうが、安土城に見られるように、信長という人物は秀吉以上に美的感覚が優れていたかと思います。利休は秀吉によって、茶頭として、茶の湯だけでなく、政治的な顧問役もつとめたといいます。では、信長と利休が出会っていたら、その後の茶道はどう展開していったでしょうか。そう考えるのは、楽しいことです。また、違った茶の湯が展開されたのではないかと思います。

 さて、昨日のブログで、松本の押し絵雛を、明治維新で失業し武士やその奥方たちが制作したと書きましたが、どうも違ったようです。江戸の半ばごろから制作され、今のようなお雛様が誕生したために、押し絵雛が作られなくなり、さきごろ、それを復活したご夫婦がいるといったあたりが、ほぼ正しいようです。

如庵