骨董亭如庵  第29回 | michael-thのブログ

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 京都の大徳寺を訪ねたのはいつのことだったでしょうか。いくつもの塔頭があります。そんな中で、紛れ込むようにして入っていったのが、總見院(そうけんいん)でした。門のところに、竹でできた結界がおかれ、観光謝絶している塔頭も多い中で、たまたま入り込んだのが總見院でした。豊臣秀吉だったか織田信長だったかの木造がありました。それで總見院の由来を思いだしました。信長は明智光秀の謀反により、本能寺の炎の中で49歳の生涯を閉じますが、信長の天下布武の意志をついで、光秀を山崎の戦いで討ったのは秀吉です。そして信長の葬儀を行うために、創建したのが、この總見院だったことを思いだしました。なぜ、總見院の塔頭に入れたのか、今でも不思議ですが、何かの記念公開だったのかもしれません。平日の昼間で、ほかに参拝客はおらず、静寂が信長の墓を包んでいました。歴史に詳しい方は当然、ご存知でしょうが、信長が亡くなった本能寺は、今の寺町通りではなく室町通りにありました。また、かつての本能寺の近くには、南蛮寺跡を示す石碑が立っています。京都の町の面白さは、少し散歩するだけで、日本史で習う人物や出来事にちなんだ石碑があちらこちらにあることです。私が京都に住んでいたころは、歩いて10分以内のところに、在原業平邸跡、弁慶の力石、南蛮寺跡の石碑、法然の住居跡などがありました。

 さて、大徳寺ですが、昨日のブログに書いたようにお茶と縁の深い寺です。とはいえ、「茶面の建仁寺」といいますが、「茶面の大徳寺」とはいいません。建仁寺は日本にお茶を伝えたといわれる栄西が創建し、今でも、古い形の「四頭の茶礼」を行っていることから、そういわれるのでしょう。もっとも、最近の研究では、栄西がお茶の木を中国から伝えた最初の僧ではないというも言われているようですが、その真相はまた別の話です。大徳寺は”開かれた禅寺”だったようです。頓智の一休さんで知られる一休宗純が住職として大徳寺を再興したりし、また「一休さん」という名前で人々に親しまれたように、オープンな感じがします。

 冬の時期になると、早朝の京の町を托鉢僧が声をあげて、あの声はなんというのかわかりませんが、托鉢に回ります。私も何度も見ています。菅笠をかぶり、墨染の衣に手甲・脚絆姿の托鉢僧の姿は、魅力的です。禅では、すべてが修行というのだと聞いています。

 なかなか、本題にいきいませんね。ひょんなことから我が家にやってきた茶道具の中に多いのが、大徳寺ゆかりの高僧たちの一行書です。すべて大徳寺にご縁のある方たちの書です。大橋香林、小堀卓巌、大綱宗彦、松長剛山などの方たちです。香林師の「明月上孤峰」、孤峰庵の住職をつとめた卓巌師の「開門多落葉」、江戸の後期に大徳寺の住持をつとめた大綱宗彦師の「月多秋友」、そして剛山師の「白珪当可磨」。ありがたいことに、漢字はもともと象形文字ですから、その一字一字を見ただけでイメージがわきます。
明るい月が、山の上に見える・・・
門を開いたら、落葉の山だった・・・
明るい月は秋の夜長の私の友のようだ・・・
勝手に私なりに解釈してみました。今の季節にぴったりという感じがしませんか。また、きわめてビジュアル的な表現と思います。それでいて、何か胸に迫るものがあります。
剛山師の「白珪当可磨」というのは、浅学な私にはわかりませんが、「磨けば磨くほどいいことがあるよ。そしてそれはまさに今しかないよ」というように言っているように感じます。

 千利休や小堀遠州が大徳寺で禅の修行をしたようですし、紫野といえば、大徳寺の別名のようになっていますし、室町から戦国時代に活躍した武将たちが創建した塔頭が多いように思います。

 私がよく通った禅寺は天竜寺です。別に座禅を組んだわけではありません。天竜寺を盛り立てる有志の会のようなものがあり、定期的に夢想国師が作庭したお庭を見ながら、お酒を飲んだり食事することがありました。その有志の会の方のご紹介で、何度か天龍寺にはお邪魔させていただきました。今、思うと、贅沢な時間だったと思います。また、先代の住職で、亡くなられた平田師とは、カニ鍋を食べる会というので、ご一緒したことがあります。その頃には、すでに平田師は病にかかられていたようですが、俳優の笠智衆さんを思わせる風貌の方でした。

秋の夜長、徒然なるままに、ブログ書く その楽しさよ 如庵