指示がなくとも、いつも準備万端の長衫ですが予想外の事態発生です。

画像は全て、中国ドラマ『三生三世十里桃花』からお借りしました。
 
 
霊鶴の高い鳴き声が崑崙虚に響き渡り、誰か戻って来ました。霊鶴と仲が悪いと言えば…司音です。
 
長衫は阿離を右手で庇い、左手に神剣を持って構えましたが、正堂に立っていたのは師父・墨淵でした。
墨淵は司音を抱き上げていたので、上衣が血に染まっています。
「長衫、阿離、いま戻った。」
「師父、お帰りなさい。」
「師父、母上?墨恩?」

阿離が墨淵に駆け寄ると、末弟の墨恩が泣き顔を見せました。
「大兄上~」

墨恩は阿離に飛びつき、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、大兄・阿離の衣にこすりつけました。

その昔、阿離が東海の水晶宮で、母の裙(スカート)で涙と鼻をかんだそのままに。
「あ~墨恩…」
「大兄上、母上がたいへんです。」
「母上?」

2人が話している間に、墨淵は長衫と一緒に正堂から奥の書斎に移動しました。長衫が手早く置いてある物を片付け、場所を確保します。
「長衫、令羽もすぐに戻る。手術の用意を」
「はい、師父。」

長衫は正堂に用意してあった『医療道具』から、たらいを取ると『手術用品一式』を入れて運びます。
「ん?」
霊鶴がまた高く鳴きました。正堂前に降りて来たのは、令羽です。
「令羽、戻ったか…」
「二師兄、手伝います。」

令羽が大量のたらいに手を伸ばすと、懐に居た白凌羽は肩に移動して上着の襟を掴みました。令羽から離れる気はないようです。
「白凌羽は、阿離と一緒に居よ。」
「なー(嫌~)。」
「令羽が好きだな、白凌羽は。」
「なる(当然よ)。」
長衫は「はははっ…。」と笑いましたが、司音の状態を考えると子どもたちに修羅場は見せられません。阿離と一緒に離さなければ…
「阿離、白凌羽も連れていけ。」

墨恩から何やら話を聞いているらしい阿離が、こちらに顔を向けました。
「長衫師兄、私たちは母上から離れません。」
「子どもにはまだ早い。」
「早いかどうかは私が決めます。父上が居ないなら、私が母上をお守りします。」
「…止めておけ。」と言う長衫。

墨淵の「ならば、入れ。」という声があり、書斎に入る子どもたち。
 

彼らが見たのは、師父・墨淵が母の髪を『男髪』に結い上げたところでしたが、血の気が引き青い顔をした母を見るのは初めてで、阿離も墨恩も、気の強い白凌羽でさえ躊躇を覚えました。
「阿離、ここに座って母の身体を支えよ。『血が掛かっても泣かぬ』と約束するならば。」
「阿離は泣きません。」
「墨恩も泣きません。」
「なる(私も)。」

墨淵に言われた通り、阿離は母に全身で抱きつくようにして座りました。墨淵は司音の両手をつかむと阿離の背にまわして、両手首を紐で括りました。動かないように。
「司音、阿離を抱いていよ。子らがそなたを守ると言っている。」
「師父、子どもたちには…無理です。」
「天族の子ならば、いずれ戦に出る。血と怪我は避けられぬ。まして、身内の血を畏れていては大事となる。慣れるしかない。」

まだ幼い阿離の手は辛うじて司音の背を撫でる程度、『支える』ほどの長さはありません。
「子どもたちのためにも、耐えよ。」
「耐えます。耐えてみせます。」

墨恩と白凌羽は、阿離の左側に座って同じように母を支えました。
「師父、準備が出来ました。」
手術道具の準備を終えた長衫が墨淵に話し掛け、令羽も隣に控えました。
「いつでも、始められます。」
「では、始めよう。」



令羽は思い出した。


かつて、若水大戦で負傷した令羽に『応急手当』をしたのは司音だった。
 
あまりの激痛と出血多量で意識混濁していた令羽だが、司音の容赦ない止血方法(仙術)には哭きながら耐えるしかなかった。
 
司音は短く折った矢を抜くとき、『消毒薬』代わりの『崑崙虚のお酒』を傷口にドバドバと掛けた上で、『玉清崑崙扇』由来の『雷』でもって傷口を焼き切って止血していたのだ。
 
『麻酔なし』で6回も、電気メスを振るわれたようなものである。
 
生きたまま身体に『雷』を流され、焼き切られた令羽は上仙になるために受けた『天劫(天雷)』よりも、司音の雷電による傷の方が深かった。療養に7万年掛かった理由だ。
 
そうして本来『上仙』で終わるはずだった令羽が『上神』になったのは、司音のおかげ(?)である。
 


あの日、白真上神と畢方が救出に来たのは令羽のためではなかっただろう。司音が白浅だったから、妹を助けるついでに令羽も助けた。


令羽は、司音に『借り』がある。
 


墨淵の止血方法(仙術)は『傷口を凍らせて』止血するが、それだけだと一時しのぎにしかならない。重ねて令羽の止血方法(仙術)で、『強風で傷口を乾かす』ことにより完全に止血することが出来る。ただし、この止血方法は『激痛』をともなう。
 
『消毒薬(崑崙虚のお酒)』で傷口を洗うとき、『傷口を凍らせる』とき、『傷口を乾かす』ときである。
司音は麻酔なしで、『傷口を冷凍乾燥(フリーズドライ)』されるのだ。
 
『崑崙虚一の料理上手』な長衫の手により、司音の左肩に乗っていた霊虎の頭は外され、牙だけが残された。牙はしっかり肌に突き刺さっていた。
 
墨淵が小刀で司音の襦裙を切り裂くと、左肩の白い柔肌が露になったが、これは治療である。
 

長衫が用意していた『消毒薬(崑崙虚のお酒)』を左肩に何度も掛け、墨淵と令羽が白布で傷口を洗う。霊虎の牙で裂かれた傷口と、牙が突き刺さったままの傷口から血が流れたが、司音は静かに耐えた。ここまでは。

「牙を抜く前に、裂かれた傷口を手当しておこう。」と墨淵が言うと、間を置かずに傷口は凍った。令羽が続いて乾かす。血は止まる。
「師父、こちらを。」
「令羽はこれを。」

長衫が渡した細い縫い針は弓のようにカーブしていて、白い絹糸が付けられていた。これで傷口を縫うのである。
「師父、二師兄、九師兄、お願いです。」と司音は言った。
「なんだ?」と墨淵。
「乙女の柔肌なのですから、優しく、丁寧に、縫ってください。雑に縫わないで、後が残ります。」
「出血多量で死にかけているわりに、こだわるのか?」
「こだわります。」
「わかった。丁寧に縫ってやろう。」

司音の左肩を、3人が丁寧に縫っている姿は異様であるが、皆、真剣である。
 
縫われている司音は黙って痛みに耐えていたが、後日、鏡越しに『傷口(縫い跡)』を見てこう言った。「だから、『丁寧に縫って』と頼んだのに…。」と。
 

司音の左肩に残る霊虎の4本の牙を見て、令羽は思った。「これは深そうだから、抜くと血が吹き出そうだな。司音は耐えるだろうが、白凌羽は大丈夫だろうか?」と。

いまのところ、白凌羽は震える手で母を支え続けている。健気だ。
 
墨淵が小刀を1度手に取ったが、置き直すと、司音の両頬に手をやり告げた。
「司音、いまから順番に4本の牙を抜く。出血するだろうが、止血する。気を失っても、意識不明になっても続けるから、覚悟せよ。」
「師父を信じていますから。」
「わかっている。」

司音の額に墨淵が口付けた。それには愛情が込められていた。どうみても『師弟愛』ではなく、『男女の愛』が込められていた。
 
墨淵の左右に居た長衫と令羽はそれを見て一瞬びっくりしたが、『そう言えば、師父と司音は元夫婦だった。』と思い出した。

二人に特別な信頼関係がある理由を思い出して、安堵する。墨淵は司音を愛しているのだ。いまもなお…。
 
墨淵は小刀を掴み直し、司音は阿離の目を見て話し掛ける。
「怖いなら、目を瞑っていなさい。」
「私は怖くありません、母上。」
「そう?母は怖いわ。」
そう言うと、しっかり阿離を抱きしめてから身体の力を抜いた。牙が抜けやすいように。
 
サクッと音がして、小刀が司音の皮膚を割いた。墨淵が牙を抜くと、血が一筋飛んだ。すかさず、墨淵の仙術と令羽の仙術で血は止まる。長衫が用意した縫い針で傷口を縫う。


 
4度繰り返して手術を終えたとき、司音は激痛で意識不明になっていて、白凌羽も飛んできた母の血を被ったショックで気絶していた。
 
阿離と墨恩は、ぼーぜんとしていた。
 


崑崙虚の霊鶴がせわしなく高く鳴いた。

鳴き続ける。

墨淵が『言外』に畳風に命じたことが、効したらしい。「司音の手当をする間、夜華と子狐たちを崑崙虚に越させるな。時間稼ぎをせよ。」と指示しておいたから、夜華と子狐たちの到着が遅くなったのだ。
 

墨淵の書斎は血だらけだから、夜華を会わせるのは司音の部屋の方が良いだろう。手当は終わったから、今後の『看護』は夜華に任せた。
 
墨淵はふーっと息を吐き、それを見て長衫と令羽も息を吐いた。緊張を解いても良いだろう。
 
 

続く