Chap.1 夕暮れ(5) | michikoのひとりごと

Chap.1 夕暮れ(5)

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 カウチは、新宿東口を出て、少し南に行った所の路地の奥にあった。ビルの地下にある小さな、しかし小奇麗なバーというか、パブというか、そういう店だった。6人がけのカウンターにボックス席が二つ、時間が早いせいか、まだ客は一人もいないようだった。

「いつもの」カウンターに座りながら、由貴は注文する。
「りょう...かいっ」
マスターは、ウーロン茶の瓶を冷蔵庫から取り出し、オンザロックにして差し出す。由貴は体質的にアルコールが飲めない。それでも、カウチに出入りするようになったのは、雰囲気が気に入ったから。それに、マスターが、同じ帯広の出身だった事もある。

 実は、帯広時代に、由貴がよく通っていた喫茶店の名前が、やはり、カウチといった。だから、初めてこの店を見つけた時、何故か懐かしい気がして、つい中に入ってしまった。丁度ホームシックにかかっていた頃だった。

「何にするかい」
いきなり入ってきて、カウンターの酒瓶を眺めまわし、またいきなり出て行きそうになる女の子に、別にとがめるとか引き止めるとかいうのでもない、単調な口調でマスターが声を掛けた。その語尾の「...かい」が由貴の耳をとらえた。
「あの....北海道出身...ですか?」
「帯広」
「私も帯広でした。」

 北海道出身者にしか判らない感覚だが、同じ北海道出というだけで、かなり気を許してしまうというか、理性を越えた所で不思議な連帯意識のようなものがあった。しかも、同じ帯広、同じカウチ。由貴の最初に感じた「懐しさ」はこの時、確信に近い物に変わっていった。
 カウチのマスターも、帯広の喫茶店カウチの常連だった事を知ったのは、もっと先の話だった。そして、その頃には、酒も飲まない癖に、由貴もこの店の常連になっていた。それから、もう10年にもなる。

「歩美ちゃんと待ち合わせ?」
「まあね」
マスターの声で、思い出したように時計を見る。
もう約束の4時を30分も過ぎていた。
「歩美来ていた?」
自分でも間の抜けた質問だと思う。本当は、ここに着いてすぐ聞くはずの質問なのだから...。でも、店にはいって、誰もいないのを確認して、マスターとのやり取りがあって、その後、その質問をするきっかけがつかめずに、だらだらと取りとめのない過去の回想にふけっていた。

「来ていないよ。何か訳ありだな」
由貴は答えようとしない。マスターの声は聞こえるのだが、何故か遠くで話しているような気がした。そして、またせかせかした様子で、腕時計を覗き込む、そんな由貴の様子を、横目で見ながら、マスターは空になったグラスを引き上げ、冷蔵庫から赤色の液体の入った瓶を取り出すと、別のグラスに氷を入れ、その液体を注いでから、由貴の前に置く。

「ノンアルコールだよ。新製品。」
えっ、と顔をあげる由貴に、マスターの声が追っかけるように加えられた。
「おごりにしとくよ。今日のところは。気に入ったら注文してくれ。いつものパート2で分かるから。」
「うん」
「いろいろと、ゆるくないよな。」

 『ゆるくない』は、北海道弁で、結構大変というような意味。特別どうということはないのだけれど、そう言ってもらえると少し気持ちが暖かくなる。それっきり、しばらく会話が途絶えた。他に客がいない事もあり、BGMのサイモンとガーファンクルがいやにはっきりとした発音で、『スカボロフェアー』を歌っていた。

「ありがとう、頂くわ」
口に含んだ、その液体は、少し薬臭かったが、甘さも程々で、懐かしい味がした。
「今、何時かしら」今度は腕時計も見ずに、マスターに聞く。
「4時42分」チラッと時計に目を移して、マスターは答える。
分かりきったことだった。何か事情があって、歩美は遅れているのだ。でも。
「わざとすっぽかすような子じゃないさ。」
由貴の気持を見透かすような言葉だった。
「うん」
BGMは、いつの間にか、JJの『コズミック・ブルース』に変わっていた。

                ー第二章「都会の孤独」につづくー