本当は授業に全然出てないの。大学やめて留学したいの。
田園都市線・中央林間駅で、母と入った喫茶店で、
私は、勇気を振り絞って、言った。
大学1年の後期が、始まるか始まらないかくらいだったと思う。
母の顔。驚きとショック。
色々と聞かれたあとに、
「どうしても行きたいのなら、大学卒業してから行きなさい。」
そうじゃないの。
今すぐ行きたい。大学1年生から留学したい。
もう、大体、行きたい学校も絞っている。
あとは、お父さんお母さんの了解をもらうだけ…
今考えれば、なんと身勝手な方法かと自分でも思う。
相談もせずに、全部調べて決めて、
あとは承諾とお金だけ欲しいなんて。
でもそのときの私は、海外に出たい一心で必死だった。
頑固な私に、母は、根負けした。
「お父さんに、話しなさい。」
話がある、と言う私を、父は和室に入れて戸を閉めた。
父とこうして向かい合うなんて初めてだった。
あぐらをかいて座る父に、
私は、自分の思いをすべて話した。
今の大学には行っていないこと。
海外の大学じゃなきゃいけない理由。
留学生の卒業が難しいこと。覚悟はできていること。
歩んで行きたい人生。
1時間か、2時間か、おぼえていないが、
長い、長いあいだ、父は、口をはさむことも怒ることもなく、
じっと、娘の話を、ただただ、聞いてくれた。
大人が、私の話をあんなに真剣に聞いてくれたことは、
初めてだった。
そして最後に父はこんなことを言った。
「よく、分かった。
お父さんのやり方は、たとえば会社の若い部下が、
『これをこうしてやってみます』と言ってきたら、
まずはやらせてみることなんだよ。
留学は、Miaが、自分でちゃんと考えたことなんだろう。
それだったらやってみたらいい。
かわいい娘だよ。いなくなったら本当にさみしいけれど。
行ってきたらいいよ。
だけど、いつでも、帰って来ていいんだからね。」
まじめな父。
あまり幸せな家庭に育たず、
自分が築いた家庭を本当に大切に思っている人だ。
思春期にはうっとうしく感じたほど、家族が大好きな父だ。
叱られた記憶も無い。
どちらかというと過保護気味だった両親が、
甘ったれで何もできなかった長女を、海外に送り出すのは、
どんな気持ちだっただろう。
飛び立っていくほうよりも、送り出す側のほうが、
ときには勇気が必要なのかもしれない。
大学を退学し、家庭教師のバイトをしながら英会話学校に通った。
バイト先の道が暗かったので、母は毎回送り迎えをしてくれた。
最初の留学先は、
カナダ・BC州北部の小さな街、Fort St. Johnに決まった。
ここでまずは英語を勉強し、大学に進むつもりだった。
そうこうするうちに、あっという間に1年が過ぎ、
9月1日、出発日が近づいてきた。私は20歳になっていた。
航空券を予約し、親戚のお別れパーティーが終わり、
ホームステイ先からファミリーの手紙と写真が届いたら、
なんだか急に実感がわいてきた。
船便で送る荷物の一番上にぬいぐるみを置いた母が、
泣きそうだったのを覚えている。
出発の日。
空港まで向かう車の中、
成田が近づくごとに、家族と別れるさみしさがこみあげてきた。
南ウィングに集合したのは、
両親、妹、親戚、高校の友人大勢の、大見送り団。嬉しかった。
記念写真を撮って、贈り物や手紙をもらって、いよいよ搭乗時刻。
高校の親友は、私に背を向けて肩を震わせていた。
私より年上に見える妹は、小学生のように泣いていた。
けんかもたくさんした母は、私の手を長いこと握って涙ぐんだ。
父はきっと、いろんな想いに耐えていた。
出国審査を抜けて、ガラス越しに上を見たら、
手を振っているみんなが見えた。
ここからは、ひとりだ。
後日談。
私が乗り込んだ飛行機は、
エンジントラブルでなかなか動かなかった。
父は、辛抱強く待つ見送り団全員に、
ジュースを買って配って回ったとか。
みんな、ついに飛び立つまで、夜まで見守っていてくれたらしい。
今は天国にいる、自由人のおじが、遠くなる飛行機を見ながら、
「Miaは、二十歳(はたち)の旅立ちだなぁ」
とつぶやいていたそうだ。
機内で涙ぐんでいた私。初めての海外。
そして、自分がどんなにすごい留学先を選んだか、
予想すらしていなかった…。
(続く)
こんな言葉があります。
「私は悟られない人になりたいと思う。
悲しいことも、痛いことも、
自分の胸に収めて笑顔を絶やさず、
泣き言を言わず。
もし、それでも悟ってくれる人がいたとしたら、
そのひとはきっと、
自分にとってかけがえのない大切な人だろう。」
どこかで教えていただいて、
ノートに書いておいたのですが...
残り少ない2006年の課題は、 まさにこれです。
(そういえば、「サトラレ」ってドラマありましたよね ^^ )
「悟られない人」っていうのは、 ただ単に「顔に出さない人」
というわけではなさそうですね。
周りの人も気分良くいられるように、
「自分の胸に収めて笑顔を絶やさず」...
そうすることで自分にも幸せがめぐってくる。
まずは「泣き言を言わず」にいられるだけの、
強い自分をつくらなければ。
やはり、優しい人は強い人、強い人は、優しい人。
身近で、「悟られない」がきちんとできている人がいます。
いざ!というとき、
自分の感情コントロール力が試されるとき、
絶対に、「悟られない」。
自分がぐっとこらえてでも、 場の雰囲気、
周りの気持ちを優先できる人。
つらいこともいっぱいあったはずの過去を、
ジョーク交じりで語った後に、
「でも生まれてきてほんま良かった。
人生めちゃおもろい。
生んでもらってありがたい」と、笑う。
彼の心配りは尊敬しています。見習いたいものです。
「悟られない人」。 今年だけではなくて、
一生の課題かもしれないなぁ。
恩師・ジムの手紙を読んで、
「留学したい!」って言う気持ちはどんどん大きくなっていった。
アメリカだけじゃなくて、カナダ留学にも興味が出てきた。
ちょうど同じ頃、「女が留学するとき」という本を読んだ。
日本初の留学カウンセラー、栄 陽子さんの著書。
(今は「女が留学に賭けるとき」というタイトルで出ているはず。
留学に興味のある女性にはオススメします☆)
栄さんの留学や人生に対する考え方には、
ものすごく影響と刺激を受けた。
今の私のベースになっているとも言えるくらい。
決めた。「まずは英語留学して、ゆくゆくは大学卒業する!」
決めたら早い。
すぐに留学関係の本を買い集めた。
そのころはまだ、インターネットも普及していなくて、
今でこそあちこちにある「留学エージェント」も少数だったから、
リサーチから入学手続きまで、自分でするつもりでいた。
カナダ・アメリカの英語学校いくつかに英語で手紙を書いて、
資料を郵送してもらって、行き先は大体絞られてきた。
海外大学の仕組みも調べた。
入学より卒業が難しいこと、勉強三昧の4年間になること、ネイティブスピーカーでもがんばらないとすぐに退学になること…とかのシビアな現実を知った。
そのうえで「絶対、卒業する!」と腹をくくった。
でも…覚悟はいいが、
両親の許可をもらったどころか、
まだ、全然何にも、相談さえしていなかった。
海外大学卒業を本気で決めたときの私はもうすでに、
日本の大学1年生だった。
本当は、高校出てすぐにでも、海外に出たかったけれど、
娘の留学なんて夢にも思っていなかった両親から、
「日本の短大か大学を出たあとでもいいでしょう」と諭され、
大学に行って何をするかも分からないまま、
いくつか受験して、受かった中で一番難しいと言われるところに、
入学してみた。
最初の数ヶ月は、楽しく通学していた(つもりだった)。
お洒落な大学。つたの絡まる校舎。
テニスサークル。新しい友達。英語の授業。
でも心の深いところで、「こんなことがしたいんじゃない」
って叫んでいる自分がいた。
留学する夢が忘れられなかった。
4年後じゃなくて今すぐに行きたかった。
1年間の前期も終わらないうちに、
私は少しずつ授業をサボり始めた。
毎朝ちゃんと家を出て、
電車とバスを乗り継いで2時間で学校に着く。
1日、1日を、カフェテリアと図書館で過ごした。
ずっと、勉強のフリをして、留学の本を読んでいた。
せっかくできた友達にも会わなくなった。
友達や教授に見つからないよう、隠れて歩いた。
そのうち、授業にはひとつも出なくなった。
このまま大学に居ても、留年は確実だった。
何より、親に内緒でさぼっているのがつらかった。
両親は、ふたりとも、大学を出ていない。
父は特に、独学で大量の知識を、苦労して身に付けた。
だから長女の私が、名の知れた大学に受かったことを、
すごく喜んでくれた。そのことはよく分かっていた。
でも受験費用や、私大の入学金・学費の尊さを、
私はまったく知らなかった。
社会人になった今でこそ、
100万円、200万円の重みを感じるけれど、
当時は、授業をさぼることで幾らのお金を捨てているかなんて、
考えもしなかった。
親にどう思われるかだけが怖くて、迷って悩んだ。
言わなきゃ。いつかは言わなきゃ。でもどうやって?
「お父さんお母さん、許してください。
本当は授業に全然出てないの。大学やめて留学したいの。」
言い出せないセリフは、のどに詰まった石のようで苦しかった。
大学にも行かれない、家にも帰れないと思った朝、
小田急江ノ島線に飛び乗って、海のほうに逃げたこともある。
すごくひとりぼっちな気がした。誰かに助けて欲しかった。
でも、自分を助けるのは自分しかいないのだった。
(続く)


