私が撮った写真からわかった、
私の物事の味方。
私の話す言葉からわかった、
私の物事の味方。
それは、
俯瞰的すぎる、
ということ。
俯瞰というか、漠然というか。
どれも遠くから景色全体を眺めているような写真ばかり。
何か一つに焦点を当てたものは、ない。
子どものころから、
学校で習うことは、
全部覚えようとしてきた。
例えば、
高校生のとき、
テストの範囲が教科書P23からP50だと言われると、
その内容全部を隅から隅まで覚えようとした。
就活の時だって、
生きたい会社が出していた数十ページに及ぶレポートを、
全部ノートに書き写して覚えようとした。
今だって、
何かの講演会にいったときは、
全部をメモろうとしている。
どれも聞き逃したくない!
どれも大事に違いない!と。
これはある意味、
物事全体を捉えようとしているから、
俯瞰的に物事を見ることができているともいえる。
でも、それと同時に、
自分にとって何が面白かったのか、
自分にとって何が大切だったのか、
自分の人生に何を取り入れたいのか、
という「自分軸」が欠けている。
だから、当然と言えば当然かもしれないけど、
自分の人生をどう生きていきたいのか、
という、とっても大切なことについても、
漠然しか考えられない状態になっていた。
頭のなかでは、なんとなく、
こうしたい、
ああしたい、
といった想像はできる。
私の場合は、海外に住んでみたい、
という願望。
その願望を持ち始めて、はや数年が経過。
叶いそうで、まだ叶っていない状態。
漠然としすぎていて、
さまよい続けている。
具体的に、どこに住みたいの?
と聞かれた時、
明確な答えが出てこない私。
それでは海外に住みたいと言ったって、
住めない。
どこに行くかが見えていないから、
行きようがない。
ただ単に、さまよっているだけ。
自分軸に基づいて、
自分の目的地を、具体化できていない。
海外といったって、
世界には200近くの国がある。
そのどこに住みたいのか。
自分が大切にしたいことに基づいて、
いくつかの判断基準から、
取捨選択できるはず。
そして、いくつか選んで、
実際に住んだらお金がいくらかかるか、
どんな食べ物があるか、
どんな仕事ができるのか…
と具体的にイメージしてみる。
全体を単に俯瞰的に眺めるのではなくて、
受動的に眺めるのでもなくて、
何かひとつに焦点を当ててみて、
そしていろんな角度からそれを見てみる。
そこには、
私だからこそ感じられるものがあり、
私にしか生きられない人生がある。
今の私の課題は、
自分の漠然とした願望を、
具体的な願望に落とし込むこと。
能動的に動いて、
俯瞰的に見るだけではなく、
いろいろな角度から焦点をあてて、
具体的に見ていくこと。
二宮 えり