救急搬送 | 神経芽腫の娘のこと

神経芽腫の娘のこと

2017年12月3歳9ヶ月、小児がん神経芽腫と診断され、再発を繰り返しながらも懸命に生きた証、治療や娘との大切な時間をどう過ごしたか、それからの事、子どもを亡くした母親の気持ちを綴っています。2023年2月14日永眠。アメンバー申請の際は自己紹介メッセージをお願いします


連日、悲しい投稿になると思います。


感情移入してしまって読んでいて辛い。


と、思われる方も中にはいらっしゃるかもしれません。


ごめんなさい。そのように感じられる方は、スルーして下さいね。


改めて、文章にする事で、気持ちも落ち着いたり、


自分自身の気持ちの整理にもなっているのです。


昔から、作文を書く事や、小説を読む事が好きでした。


因果関係は分かりませんが、ブログを書く事も嫌いではありません。


娘の病気と向き合う為でもあるし、


娘の頑張った証として、


覚えているうちに書き残します。


【2023年2月14日の出来事】


時刻は深夜1時頃。やっと救急車が到着。



向かってる間、SpO2は80から90台。



搬送中、酸素を10リットル流すことも。



あんなに大嫌いだった酸素マスクを、



娘は、自ら口にあてていました。



『苦しくない?酸素マスクすると楽になる?』



と、聞くと、頷く。



苦しさよりも、痛みの方が辛かった様子。



途中、何度も何度も



『ママの事わかる??』



と、確認していました。



救急車でも病院まで30分かかりました。



やっと病院に到着し、



娘は、『痛み止め早く入れて!』と、看護師さんに訴えていました。



フェンタニルはすぐに用意できる薬ではないので、



とりあえずアセリオを入れてもらうも、ほとんど効きません。



血圧が上手く測れません。



酸素は10リットル入れて97ぐらいをキープしていました。



苦しさはあまり感じていない様子。



生食を時間500で流しました。



その間、採血をし、血圧を何度もトライ。



やっと測れた数字はやはり低い。



病棟へ上がる事になりました。



その間も、痛みがきつくなったり、治まったり、



だけど、唇の色が真っ白…



今までの様子とは違う。



胸騒ぎがして、自分の心拍も上がっていました。



救急車に乗る前、自宅のポストに大好きな人たちから、



娘宛に贈り物が届いているのを見つけ、




咄嗟に、それらを手に取り、救急車へ乗り込みました。




その贈り物は、




名古屋のモケケと、お手紙と可愛いバレンタインのチョコレートでした。




病室のベッドの娘の枕元に置いてあげました。






可愛くて、食べるのが勿体ないね。と、話しかけていました。