久しぶりのブログです。
月日が経ち、振り返ってみると いつの間にか、
自分の生活が、ガラリと変わっていることに気づいた今日。
私の仕事が変わり、覚えることも多い、一方で
子供の世話も、気づけばそれほど
手がかからなくなってきていることに、
嬉しさと、さびしさ半分。
不思議な気持ちです。
今は、縁あって、特別支援教育の仕事に携わる日々。
夫の病気や障害のこと、日々の暮らしで抱えてきたちょっとした困難さ、そういうのものが 今、
仕事をする上での理解に繋がったり、助けになったりして、経験したことが不思議と役に立っているのを実感しています。
大人になってから病気や障害を抱えてしまった夫のような人もいれば、
生まれながらにして、困難さを抱えて生きている人も、沢山いるんですね。
そういう、今までと見えなかった世界を今、色々と新たに知ることができていること、すごく
自分にとって意味のあることだなぁ、と感じています。
ひとつ、私が受けた印象として、
生まれながらにして障がいや困難をもっている人は、
とても純粋で、素直にまっすぐ生きているなぁということ。
健常者→障害をもった人は、今までは
できていたのに、という思い(プライド)のようなものがあるので
なかなか現実を受け入れるのに時間を要します。
自分のあるがままを受け入れるって、難しいけど、
それができると、とてもハッピーなオーラに包まれる。
基本的なことだけど、
要するに、なんでも、全ては自分の気持ち次第だということ。
幸か不幸か、は、いつだって自分で決められるんですね。
そういう、根本的なことも、あらためて学ぶことができていることに、感謝すると同時に、
不思議なご縁をとても感じています。
この担当になってからというもの、
昔 お世話になった人や、逢いたかった方、ご縁のある方に、
たて続けに会うことができたり、再びご縁が繋がるようなことが続いていて、
ラッキーだなぁ、嬉しいなぁ、という気持ちです。
ここから、私がやらなければならないことのヒントが繋がっているような気がします。
思ったことをつらつらと書きなぐっているだけですが、自分用のメモとして残しておくことにします。
平等な教育、支援とは何か、というテーマで、、
昨日聞いたことで、心に残っている話。
たとえば、壁(塀)があって、その向こう側を見ましょう、という場合。
どうしたら平等か。
みんな背丈が違うので背の低い子は当然見えないですよね。
そんな時、踏み台を使って、目線を高くしてあげれば、他と同じ高さになって向こう側を見ることができるようになる。
これが、公平・平等にするための支援なのだと思うのです。
今の現場では、まだ、
『それは特別扱いだ、なぜこの人だけ、「台」が与えられるのか、不公平だ』
のように なってしまっているのが現状ですが、
ひとりひとり、背丈も違えば、キャパシティも感覚も違う。
その人が抱えられる負荷の量も違うのです。
そういう個人個人の個性を生かす、認める、ということが、
集団を重要視する日本では、まだまだ理解されにくく、
生きにくいと感じてしまう人が多いんじゃないかなぁと思います。
世の中には、素敵な変わり者が沢山います。
私もかなりの変わり者で(笑) 正直、集団行動、とっても苦手です。
毎日、職場でも、集団で合わせて行動することを強いられ、しかし
それを不得手としている子たちの苦しむ姿を沢山、目にしています。
もちろん、何でもかんでも自分の好き勝手にやっていたら、いけないのは当然ですが
個性を理解して、それに見合った対応、支援をする。
目に見えない障がいがある場合、それは難しいことですが、
まわりの、ちょっとした理解や
『それでいいんだよ、大丈夫。』 といった言葉かけで
どれほど気持ちが楽になることか、
ほんとに、ちょっとしたことですが、
困り感で心折れそうになっている子に
『寄り添う』 ということが、いまの私の役目かなぁと、ここ最近、感じています。
私、相当、変わり者で、浮いていますが、そういう自分もそれでいいんだ、と受け入れることにします(笑)
だって、自分てそう簡単に変えられないですもんね。
