モンスターハンターと世界観 | MHXデビュー初心者から見た、一般人向けのモンハン考察ブログ

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攻略サイトなどを参考にしても、使い勝手の悪いスキル構成などが少なくなかったため、普通の腕を持つ人にとって本当に意味のある情報を提供しようと考え、立ち上げたブログです。

 モンスターハンターにおいて、新要素が追加される度に世界観が取り沙汰される。そもそも世界観とはなにかという話になるが、その作品内部における舞台の設定や法則性、登場人物の設定、と大雑把に括っておこう。

 私は、Xでデビューした新参者であるから、モンハンの世界観そのものには明るくないが、私なりに考えるところはあるので、綴ってみたいと思う。

 

 

  • モンハンに世界観は必要か

 まず、前提として、モンハンに世界観は必要か。

 これは、必要だという答えになると思う。

 

 たとえば、モンハンにおいて、タイムリープを繰り返して過去改変を行う者が出てきたり、あらゆるベクトルを操作できる者やこの世に存在しない粒子を生み出して操作する超能力者が現れたりしたり、次から次へと怪異が登場したと思えば幼女の姿をした吸血鬼などが出てきたりしたら、さすがに「いやそれはどうなの」と思うのが普通だろう。

 anything goesではないのであり、少なくともある程度の大まかなお約束ごとというのはあるのではないか。「モンハンに世界観はまったく必要ない」という主張が、「なんでもあり」という趣旨を含むのであれば、さすがにそれは言い過ぎだろう。何事にも限度はあるように思う。

 

 

  • フィクションにおける世界観

 小説やアニメは、往々にして非現実的な世界が描かれている。一見すると、そういった作品においては、「もはやなんでもありの世界」と思われるかもしれない。

 しかし、実は逆だ。小説やアニメなどのフィクションにおいては、むしろ世界内における整合性が高度に要求される。一切の矛盾を許さないとまではいわないものの、世界内部では整合性と一貫性が求められる。

 その理由を簡潔化するならば、その世界に没入できなくなるからであろう。フィクションの作品において登場する人物や生起する現象が、そのフィクションの世界観と整合していれば整合しているほど、そのフィクションの世界に没入できる。そして、その世界観内部の言語によって、その内部の出来事を理解できる。しかし、内部での整合性が保てないと、その世界そのものに違和感を覚え、その世界に没入できなくなる。簡単にいえば、こういうことだろう。

 

 このことは、二次創作を考えるとさらによく理解できる。

 二次創作は、その作品において登場したキャラクターを用いた、原作から離れたいわば自由な作品といえるかもしれない。しかし、他方で、原作に強く拘束される。原作の世界観からして「ありうる」ものでなければならない。

 たとえば、ドラクエ1において、勇者が竜王の甘言に乗った場合を想定する二次創作は、原作の話の展開とは異なるが、原作の世界観と矛盾するものではない(だからこそドラクエビルダーズはそのような作品になったのである)。しかし、勇者が竜王と戦う際に、突如としてシドーを召喚して戦うような話や、竜王が実はバラモスだったというような話は、ありえないだろう。

 ※東浩紀は、物語性から切り離されてキャラクターが萌え化されて独り歩きする点、そして(マルチエンディングのゲームなどを念頭に)物語が並列化する点を、ポストモダン的作品の特徴として指摘する(『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』など)。たしかに、大きな物語からは解放されているのかもしれないが、他方で完全な独り歩きは許されていない。原作品の文脈―私が世界観とここで呼ぶもの―には、なお縛られているように思う。

 

 したがって、フィクションにおいて、その内部における整合性は、むしろノンフィクション以上に強く要求される。

 

 

 

  • クッパは溶岩に落ちていく

 以上からすると、モンハンの世界観は強固に純一性(integrity)を保っていなければならない、という結論に陥りそうである。

 しかし、そこまで話は単純ではない。

 以上は、ラノベやアニメを含む文学作品を念頭に置きながら、世界観の重要性について語ってきた。しかし、留保が必要である。ゲームは別だ、と。

 

 初代スーパーマリオブラザーズをやったことがある人はどれだけいるだろうか。

 スーパーマリオブラザーズにおいて、クッパはラスボスとして構えている。相手は炎を吐いてくる強敵だ。ファイヤーボールを投げて倒すのが正攻法である。

 しかし、クッパはなぜか溶岩の上の橋で戦う。しかも、右端にある斧を取って橋を落とせば、クッパを溶岩に落として倒すことができる。

 そもそもなぜこんなところに溶岩と橋があるのか不明だが、百歩譲って、溶岩の上の橋で戦うまではいい。しかし、なぜわざわざ斧など置くのだろうか? 自殺行為としかいいようがない。

 

 この疑問に対する回答として、クッパはなぜ溶岩の海に落ちて行くのか~「スーパーマリオブラザーズ」で記されている仮説が個人的にはとても気に入っている。

 結論は、「それがこのゲームのルールだから」だ。

 

 リンク先の記事において詳述されているが、自由度の高いゲームは、往々にして何をしていいのか分からなくなりがちである。とくに、当時は家庭用ビデオゲーム黎明期、ビデオゲームなどほとんど知らないという人も多かったはずだ。

 しかし、スーパーマリオブラザーズのルールは極めて単純である。「ただ右に行けばいい」。

 取り敢えず右に行けば、はてなボックスがある。障害物や敵を避けながら右に行けば、ゴールしてクリアとなる。

 そう、このゲームは、「右に行けばクリアできる」というルールに従って設計されている。

 

 そして、このルールに例外はない。ラスボスといえども、その権力には逆らえない。クッパがいかに強大であろうとも、所詮はこのゲームの中の登場人物にすぎない。このゲームのルールに殉じなければならないのである。

 「右に行けばクリアできる」というルールを貫徹するために、クッパは溶岩の上にある橋で待ち構えなければならないし、その橋を切り落とす斧を右側に置かなければならないのである。

 

 

  • 世界観はゲームの論理を超えられない

 以上のスーパーマリオブラザーズの話で、何を言いたかったのか。

 それは、世界観やら設定といえども、ゲームの論理は超えられないということである。

 ラスボスが、自らを滅ぼす危険があり、かつ自身にとって何のメリットもない斧を置いておくなど、マリオの世界観からはどうやっても説明できない。その意味で不自然であり、矛盾している。

 しかし、その世界観も、ゲームの快適さという、ゲームの論理の前には、後退せざるをえないのである。

 当時のゲーム初心者がプレイしやすくするために、「右に行けばクリアできる」というゲームシステムを採用した。後のスーパーマリオブラザーズのように、後ろに戻ったりする設計にすることも、可能であったはずである。しかし、そういった複雑なシステムは採用せず、アクションゲームとしての分かりやすさを優先したのである。

 そして、アクションゲームとしての分かりやすさやプレイしやすさは、世界観の純一性に優越する。たとえ世界観に矛盾するものであったとしても、それでもアクションゲームとしてのプレイしやすさが優先するのである。

 

 モンハンであっても同様である。

 たしかに世界観は重要であろう。しかし、モンハンはAFRIKAではない。モンスターの生態系などをただ眺めるゲームなどではないのだ。その本分は、アクションゲームである。

 したがって、アクションゲームとしてのおもしろさや快適さが優先する。たとえモンハンの世界観に沿うものであったとしても、アクションゲームとしておよそ成り立たないような要素は、排除せざるをえない。他方で、アクションゲームとしてのおもしろさや快適さのためであれば、世界観の純一性も多少は犠牲にしても許される。

 

 世界観の純一性に拘り、モンハンがゲームとしてのおもしろさを損なうようであれば、本末顛倒であろう。

 既述の通り、世界観そのものは重要であるが、絶対ではない。その世界観とアクションゲームとしてのおもしろさの調和こそが重要であろう。

 以上の私の理解が唯一正しいなどと主張するつもりはないが、世界観に拘りすぎず、モンハンをアクションゲームとして楽しむことが、最も健全な接し方であるように思う。