昭和42年9月からの半年のこと     | まちづくりの将来

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私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

三畳一間は下落合の政府系学生支援の学徒援護会の紹介だった。

大家さんが一階にいる家の2階で3つの三畳一間だった。

他の2人は働いている人のようだったが、会話なかった。

生活の基本は外食だった。

 

 

洗濯は手洗いだった。

外にある水道を使った。

洗濯板を使ったが石鹸がなかなか溶けなかった。

 

 

大学キャンパスで上級生に知り合った。

社会や政治の議論を楽しんでいた。

図書を紹介してもらった。

それまでの半年とは違った生活だった。

 

 

「行動しなければ、考えたことにならない」

そんなことが学内で繰り返された。

その通りだと思って、集会に出た。

 

 

電話が三畳一間の大家さんの家にかかるようになっていた。

集会の場所と日時。

学生運動への参加の始まりだった。

 

 

そんな中で、10月分の仕送りが消えた。

室内のどこかに置いていたはずだが、見当たらない。

それを佐世保の両親には言えない。

仕方がないので、大学の事務で紹介してもらって、短期のアルバイトに出た。

ガソリンスタンドだった。

 

 

切り詰めた生活を続けた。

病院でのアルバイトで太ったことが嘘のように痩せた。

顔を石鹸で洗うと、顔は粉をふいた。

12月に帰省すると、高校時代とは見間違うほど痩せた友人に逢った。

 

 

デモに参加した。

ある日、大学ゲートの前で大学では別の活動グループの学生に取り囲まれた。

3人の学生が手を後ろに回して顔を近づけてくる。

私が参加しているグループの悪口だが、手を出さないようにしていた。

 

 

そうそう、10月分の仕送りが部屋の押し入れから出てきた。

1ヵ月ほどが経っていた。

神様からの恵みのようにうれしかった。

その分は冬の暖房器具購入に充てた。

 

 

年が明けて、佐世保から東京に帰った。

原子力空母エンタープライズの佐世保寄港が社会の焦点の1つになっていた。

ベトナムの戦地化を阻止する。

そんなマスコミと学生運動の声が高まっていた。

 

 

1月半ばに佐世保に行かなかった。

父が心配の手紙を何通もくれたこともあったが、そこまで前がかりになれなかった。

1.19は今でも話題になる。