三畳一間は下落合の政府系学生支援の学徒援護会の紹介だった。
大家さんが一階にいる家の2階で3つの三畳一間だった。
他の2人は働いている人のようだったが、会話なかった。
生活の基本は外食だった。
洗濯は手洗いだった。
外にある水道を使った。
洗濯板を使ったが石鹸がなかなか溶けなかった。
大学キャンパスで上級生に知り合った。
社会や政治の議論を楽しんでいた。
図書を紹介してもらった。
それまでの半年とは違った生活だった。
「行動しなければ、考えたことにならない」
そんなことが学内で繰り返された。
その通りだと思って、集会に出た。
電話が三畳一間の大家さんの家にかかるようになっていた。
集会の場所と日時。
学生運動への参加の始まりだった。
そんな中で、10月分の仕送りが消えた。
室内のどこかに置いていたはずだが、見当たらない。
それを佐世保の両親には言えない。
仕方がないので、大学の事務で紹介してもらって、短期のアルバイトに出た。
ガソリンスタンドだった。
切り詰めた生活を続けた。
病院でのアルバイトで太ったことが嘘のように痩せた。
顔を石鹸で洗うと、顔は粉をふいた。
12月に帰省すると、高校時代とは見間違うほど痩せた友人に逢った。
デモに参加した。
ある日、大学ゲートの前で大学では別の活動グループの学生に取り囲まれた。
3人の学生が手を後ろに回して顔を近づけてくる。
私が参加しているグループの悪口だが、手を出さないようにしていた。
そうそう、10月分の仕送りが部屋の押し入れから出てきた。
1ヵ月ほどが経っていた。
神様からの恵みのようにうれしかった。
その分は冬の暖房器具購入に充てた。
年が明けて、佐世保から東京に帰った。
原子力空母エンタープライズの佐世保寄港が社会の焦点の1つになっていた。
ベトナムの戦地化を阻止する。
そんなマスコミと学生運動の声が高まっていた。
1月半ばに佐世保に行かなかった。
父が心配の手紙を何通もくれたこともあったが、そこまで前がかりになれなかった。
1.19は今でも話題になる。