大久保小学校の想いでパート2     | まちづくりの将来

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4年生だったとおもぅ。

担任は男の中川先生。

教室の授業が嫌いだった。

2限が体育だと給食の時間まで続いた。

 

 

たとえば、ソフトボール。

基本動作を学んだ。

その上で、クラス内勝負。

男子で4チームができ、2ゲームをやる。

 

 

授業時間が終わっても、ゲームを続けた。

勝負はついていないのだから、決着するまで続ける。

 

 

遊びのような授業。

嫌いじゃないので、歓迎だった。

校庭は狭いわけでもなかったので、3限目も続いた。

別のクラスの子どもの体育の授業が同じ校庭で進められた。

 

 

子どもながらに、中川先生のやり方に気をもんだ。

他の授業はやらなくていいのか。

他のクラスの先生の目が気になっていた。

そのことで児童になにもなかった。

 

 

学期末だったか。

中川先生の手伝いをすることになった。

たくさんのドリルがあった。

それをクラスの児童数分に分ける手伝い。

算数、国語、社会、理科・・・。

束ねる手伝いだった。

その1つを持ち帰るように言われた。

おそらく、クラスの全員が持ち帰ったのだろう。

そのドリルを自宅で解いたという記憶はない。

 

 

中川先生は5年生の時にいなかった。

他の学校に赴任したと聞かされた。

 

 

あとで知ったことだが、大久保小学校には長崎市内の先生が来ておられた。

被爆地長崎からの先生が佐世保で教育されていたということ。

10年ほど前に長崎の知人に教えてもらった。

その時に、中川先生のことを思い出していた。