大久保小学校の思い出     | まちづくりの将来

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私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

昭和30年4月に佐世保市立大久保小学校に入学。

毎日、谷郷町から東大久保町までを片道20分かけて歩いた。

階段と坂道を下り、国道を越えると佐世保川があった。

相生公園のそばを通り、弓張岳に登る道を歩き、細い道を登ると学校の門があった。

まだ集団登校はなく一人であるいた。

2学年上の兄と登校した記憶がない。

 

 

2階建てのコンクリートの校舎。

内庭(ないてい)を囲んで教室があった。

1クラス55名が4クラスあった。

朝礼があると、私は2番目に並んだ。

一番のチビだったので、級長の次だった。

 

 

学校にはいろんな子どもがいた。

静かな子からうるさい子。

金持ちの子から貧乏な子。

 

 

静かな子と金持ちの子を好きになれなかった。

自分は普通の子だと思っていた。

家はあったし、普通の靴を履いていなからだ。

成績はよくなかった。

予習も復習もしない子だった。

 

 

好きな先生とそうではない先生がいた。

でも好きな先生に絡みつくような子ではなかった。

先生との距離感がわからなかった。

それでも好きな先生の授業は楽しかった。

好きになれない先生の教えはどうしても頭に入らない。

テストの成績も悪かった。

 

 

そんなテストの結果はランドセルにたまった。

ランドセルの中の悪いテストは時々通学路を流れる小川に捨てた。

ランドセルの中には給食での食べかけのパンもあった。

カチンカチンになっていたので、それも一緒に流した。

誰にも見つからなかった。

 

 

 そうそう、通学時の思い出は3つ。

1つは映画や相撲巡業の看板。

馬に乗ったり、波止場でのいなせな小林旭が描かれていた。

鏡里、栃錦、若乃花、房錦、若秩父等が化粧まわしをつけて立っている写真もあった。

 

 

2つはバスやトラックの排ガスを吸うこと。

甘い臭いがよかった。

三輪トラックの煙を追って走った。

 

3つ目は野グソ。

通学距離が長くて、もようした際にに自宅までもたない。

坂道や階段のゾーンになると気が緩む。

家の近くの戦災空き地がその場所になった。

パンパン草を集めてケツを拭いていた。