コロナ禍であまり話題になりませんでしたが、今年は「日本建築界の大先生」であるジョサイア・コンドルの没後100年という記念すべき年でした。今回は縁のものを紹介します。

 

「1852年、ロンドン生まれのコンドルはロンドン大学出、1876年に英国王立建築家協会の設計競技「カントリーハウスの設計」で一等となりソーン賞を受賞したというだけで、イギリスで実際に建物を設計し、建てた実績はありませんでした。

 

1877年・明治10年に来日(任命の詳しい経緯は不明)、工部大学校(現・東京大学工学部)造家学(建築科)教授および工部省営繕局顧問になりました。この時、たったの25歳で、第一期生の辰野金吾(1854~1919)、曾禰達蔵(1853~1937)、片山東熊(1854~1917)、佐立七次郎(1856~1922)で年齢では師弟というよりも兄貴分、ほぼ同世代でした。

 

1884年・明治17年に工部省との契約終了により工部大学校教授退官しました。(辰野金吾が教授に就任)。

その後も日本にとどまり多くの建築を手がけました。」

 

 

まずは東大・本郷の工学部校舎の中庭にあるコンドル像で、コンドルが亡くなった2年後の1922年・大正11年に制作されました。

 

「コンドルの死から二年後に制作されたこの像は、建築家そして建築史家である伊東忠太(1867-1954)によってデザインされ、新海竹太郎(1868-1927)によって彫刻された。伊東はコンドルと特別な親交は持たなかったが、辰野金吾の弟子であった。この系譜もまた近代日本建築史におけるコンドルの重要性を示している。」

 

次は護国寺にあるコンドルとクメ夫人のお墓です。同寺の明治の元勲たちの煌びやかで大きな墓に較べれば、ごく質素なもので、コンドルの人柄が偲ばれます。

 

 

現存するコンドル建築(実施設計を担当)で最古の1891年・明治24年竣工のニコライ堂(御茶ノ水)。

原設計はロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ(Michael A. Shchurupov)だが、コンドルの実施設計の間にどれほどの改変が行われたのかについては未だ不明だそうだ。

 

現在のものは関東大震災後に岡田信一郎の設計により1929年・昭和4年までに構造の補強と修復が行われました。

ロシア系の正教会の流れをくむということで、他のコンドル建築とはかなり印象が違います。

 

1894年・明治27年に建てられた、三菱一号館(千代田区丸の内)です。

1968年に老朽化で取り壊されましたが、2009年に残っていた部品を使ったレプリカが再建されました。

 

特に銀行営業室をつかった「Cafe 1894」は雰囲気がいいですね。

 

岩崎久弥茅町本邸(台東区湯島)で1896年・明治29年、コンドル44歳の作品です。

外観はコンドルの初期建築に多くみられる中東っぽいコロニアル様式で、内部は重厚なイギリス・ジャコビアン様式です。

 

重厚な木柱が見ものです。

 

年代はやや下って、1913年・大正2年に竣工した綱町三井俱楽部(港区三田)です。

重厚華麗なルネサンス様式で、コンドル建築の最高傑作と言われています。

 

洋館の華の階段と印象的な楕円の吹き抜けと丸いステンドグラスのドーム状の明り取り。

 

昭和39年(1964)の東京五輪決定の要因の一つとなったといわれるIOC委員を招いての晩餐会など、数々の歴史的な出来事の舞台になった大食堂。今は結婚披露宴の場として使われています。

 

綱町三井俱楽部の2年後の1915年・大正4年に竣工した島津公爵袖ケ崎邸(品川区五反田)。

これも重厚華麗なルネサンス様式で、コンドル建築の晩年の佳作と言われています。

優雅な曲線が美しいバルコニー。

 

洋館の華のシックな階段とステンドグラス。

 

さらに、島津公爵袖ケ崎邸の2年後の1917年・大正6年に竣工した古河虎之助邸(北区西ヶ原)です。

現存するコンドル建築の中でもっとも新しい竣工年で、亡くなる3年前です。

春秋の薔薇は見事です!右手の2階はなんと畳敷の和室になっていて、囲炉裏が切ってあります。

 

庭もコンドルの設計です。

 

最後はコンドルが設計したものとしては珍しい岩崎家廟、1910年・明治43年竣工で、綱町三井俱楽部の3年前となります。

岩崎家秘蔵の文書や美術品を保存する「静嘉堂文庫」の敷地内にあります。今でも岩崎家の墓所ですから見学時は御配慮くださいとのことです。

インド?風ドームのお墓に狛犬、中国風の線香炉という不思議な組み合わせ。

 

 

以上、今公開されているコンドル建築を紹介しました。あと現存するのは1908年・明治41年の岩崎弥之助高輪邸(現三菱開東閣、空襲で内部を全焼、非公開)と1913年・大正3年の諸戸清六邸(現六華苑、三重県桑名市、コンドル唯一の関東圏外の建築)があります。

 

こうやって時代を追って観てみると、イスラムやサラセンというどこか中東風のテイストから重厚なネオ・ルネサンス様式に移り、なお且つ上手く和の要素を取り込み、日本に同化した西洋建築を実現していったことがよく判ります。

 

「日本近代建築の父」と呼ばれるジョサイア・コンドルだが、最大の功績は帝国大学在学の僅か8年間にその後の建築界の先達である辰野金吾・片山東熊・曽根達蔵・佐立七次郎(第一期生)らを育てたことでしょう。また、日本人の妻を娶り、日本画家の河鍋暁斎に師事するなど日本文化を理解するのにも熱心でした。

お雇い外人の中には母国での教育が不十分で充分な講義ができないにもかかわらず大金(最高額は当時の総理大臣と同等の年収)を貰い、あるいは浮世絵や仏像などを本国に持ち帰り巨万の富を得た者(お陰で散逸しないで良かったという評価もある)が少なからずいました。

 

日本の建築界が最初の先生として、「粋(いき)」や「洒落」をも解そうとする真面目な青年を迎えたことは、明治の暁光のひとつであったとつくづく思います。没後100年の年の瀬に大先生を偲びたいですね。

 

コンドルの経歴(wikipediaより)

1852年  ロンドンのケニントン(22 Russel Grove, Brixton, Surrey)に生まれる[1]。同名の祖父 (Josiah Conderは聖書関連著述家、叔父のフランシス・ルービリラック (Francis Roubiliac Conder[2]は土木技師で鉄道建設請負で成功し、親戚には多数の聖職者、技術者、芸術家がいた。父は銀行員であった[3]

1865年  奨学金を得てベドフォード商業学校に3年間通ったが、建築家を志し、1869年から親戚のトーマス・ロジャー・スミス (Thomas Roger Smith(母の従兄弟でのちにロンドン大学教授になる建築家)宅に下宿しながら[4]、サウスケンシントン美術学校とロンドン大学で建築学を学ぶ。スミスは英領インドの公共建築の設計に関わったことがあった。

1876年  「カントリーハウスの設計」でソーン賞を受賞。工部省には御雇い建築家として工部大学校本館などを設計したボアンヴィルがいたが、彼が工部大学校の建築学教師職を望まなかったため、新たに教師をイギリスに求めた。どのようにしてコンドル任用になったのかは不明であるが、5年契約で建築学教授職に就任。(イギリスで実際に建物を設計し、建てた実績はない)

1877年明治10年) 来日、工部大学校(現・東京大学工学部)造家学(建築科)教授および工部省営繕局顧問。麻布今井町(現・六本木2-1)に居住。たったの25歳!

1884年(明治17年) 工部省との契約終了により工部大学校教授退官(辰野金吾が教授就任)。

1891年(明治24年) 施工設計を担当したニコライ堂が竣工。

1894年(明治27年) 丸の内に三菱一号館を設計・建築、翌年に2号館も竣工

1896年(明治29年) 設計を担当した岩崎久弥茅町本邸が竣工。現存するコンドル建築の中では最も古い。

1910年・明治43年  設計担当の岩崎家廟が東京・世田谷区瀬田に完成。

1913年(大正2年) 三田に三井家迎賓館(現三井俱楽部)を設計・建築。

1915年(大正4年) 五反田の島津山に島津家当主忠重の邸宅を設計・建築。

1917年(大正6年) 駒込に古河家当主虎之助の邸宅を設計・建築。現存するコンドル建築の中では最も新しい。

1920年(大正9年) 麻布の自邸で脳軟化症により逝去。67歳。11日前に亡くなった妻と共に護国寺に埋葬された。