日本人がゼロリスク教の信者ばかりになったのはいつ頃からだろうか。

振り返ってみると昭和の高度成長期はイケイケドンドンでリスクを恐れず恥も恐れず前に進んでいき、その結果大きな失敗もした。公害問題、労災、薬害、交通事故、汚職、金権政治など。しかしその間日本経済は高度成長を続け、産業構造はその裾野を広げてかつ先端分野に到達して、国民はどんどん豊かになっていったのだ。

この頃の日本には“向こう傷は問わない”気概が溢れ、チャレンジが美徳とされていた。

 

そして1986年くらいからバブル経済を迎え1991年までの4年強の間、日本人は我が世の春を謳歌したのだった。ジャパンアズNO.1と煽てられていい気になり、東京の地価がアメリカ全体の地価を上回ったのもこの時期だ。半導体や家電、自動車だけでなく多くの産業で世界を席巻していた。今から思えば夢のよう。

 

しかし大蔵省による「土地取引総量規制」や日銀の「公定歩合上げ」によってバブル退治がなされ、日本経済は逆回転を始める。バブル崩壊が明らかになるとメディアは一斉に責任追及を始め、バブル紳士たちだけでなく、多くの不正取引や不良債権に加担したとみられる銀行や監督官庁・企業を攻め立てた。その過程で脱法行為だけでなく灰色の商習慣もやり玉に上がり、接待や盆暮れの贈答など社交儀礼も批判の対象となっていった。多くの経営陣や政治家・官僚が責任を問われて辞職に追い込まれ、国民はメディアによる公開処刑でうっぷんを晴らすことに喝采を送った。

 

さらに追い打ちをかけたのがセクハラ・パワハラやPL法の施行だろう。企業の社会的責任やコンプライアンス順守が重要な課題となり、会社の中での力関係に変化が生じた。つまり管理を強化しなければ不祥事に繋がり社会で糾弾されるという恐怖に駆られ、利益を稼ぐ事業部門の地位低下を招き、代わって管理部門が主導権を持つようになっていった。大体20世紀の終わり頃だったと思う。安全(OHSMS)、品質(ISO9000)、環境管理(ISO14000)に加えてコンプライアンス企業倫理、セクハラ・パワハラ、内部通報システム、ガバナンス内部統制、残業規制、ESG投資、SDGsなどがビジネスマンたちを絡めとり、大企業においては、業務時間配分が営利活動3割、被管理業務7割と非営利業務がどんどん増えていったのだ。

イケイケドンドンの時代には営利活動に7割以上割かれていて、業務時間そのものが1.5倍くらいあったので、営利活動にかける時間は3分1以下になっていると推定される。

 

私はこの事実こそが日本のGDP低迷の主要因ではないかと思っている。

新な付加価値を生み出すことができなくなった企業はコストダウンに活路を見出し、社員を非正規社員に置き換え始めた。

官僚にとっては、管理強化は自分たちの権限拡大につながるため、この流れを規制強化によって後押ししたのだ。企業などはわずかなルール違反を指摘されて、社長が記者会見で謝罪するといった光景を何度も見せられ、その都度管理が強化されたのだった。これによって管理部門はさらに力を増し、事業部門はどんどん守りに追い込まれていき、画期的な技術や製品はなりを潜めて、管理強化によるコストダウンが企業収益の柱になっていった。

 

“安全安心”という言葉が注目されたのも20世紀の最後の頃だったと思う。1996年にO157食中毒事件が発生し、食中毒を起こした企業はメディアを通じてバッシングを受け倒産に追い込まれる事態が相次いだ。この頃からだと思う。日本がゼロリスク信仰に陥っていったのは。その後も些細な失敗を咎め続けられ、ルール厳守を求める風潮に企業はどんどん委縮し続けた。従来は見て見ぬふりをされてきた慣習がルール違反として次々とやり玉に上がり、企業にとっては“危機管理”が何より重要事項となり、談合や業界活動が危険な行為とみなされ、何をするにもエビデンスが求められた

 

みんなリスクに敏感になり、極力ゼロリスクでないと経営判断しなくなっていったのだ。

そう東京オリンピックもゼロリスクが求められるが故に立ち往生している。1のリスクを恐れて100のベネフィットを失っても、それを当然と思わせる日本の社会が行き着く先には何があるのだろうか。

私にはそれは静かに死んでいく、滅亡への道筋を歩んでいるとしか見えない。滅亡に至る道筋では貧困が溢れ、倫理に抑圧されて爆発した感情に支配され、安全保障に失敗して覇権国に占領され、自由や基本的人権が制限され、その頃には安心安全とは真逆の抑圧や社会不安が支配する世の中になっている気がしている。

 

気候変動の問題もそうだ。この件で科学者たちの主張は今から管理を徹底して100年前の状態に戻せということではないか。日本で言えば明治時代、人口4千万人でほとんどが貧乏なうえ50歳で死んでいった時代だ。たしかに緑は溢れていただろうけれど、何がいい時代なのか。

 

管理責任を重視するのではなく、自己責任を問う世の中にしないと企業など組織は委縮から逃れられないし、国民はとんでもない代償を払うことになりかねない。