なんだか大仰なタイトルになってしまったが、
この「~の聴き方」では絶対にベスト盤だけで知った気になってはいけない
希有なアーティストを取り上げて、できればシリーズ化して紹介したい!という主旨。
要は一見、便利そうなベスト盤で‘お手軽’に聴く方法に
ダメだししたくなるアーティストを並べてみようというものです。
ビートルズはさしずめ、その筆頭のような気がします。
(あと、ローリングストーンズとか.....続いていけることを自分に期待です)
さて、では1枚ずつ行ってみましょう。

スタンダードを独特のアレンジでやみくもに疾走する
ファーストアルバムのPlease Please Me、セカンドのWith The Beatles。

全曲オリジナル楽曲という当時の非常識な構成で出たサードのA Hard Days Night、
(このアルバムには多くのベスト盤に未収録の「If I Fell」という名曲がある)

多くのベスト盤には入っていないカバーの名演「Mr.ムーンライト」を含む4thのFor Sale、

サントラ盤という話題の陰で、密かにカントリーやフォークの初演名曲を含む5thのHelp。

ここまでは、あえてひとくくりに言えば、ロックンロールバンドとしてのビートルズの大活躍。
絶対にアルバムで聴いた方が良いのは、いくつか記したように
ベスト盤に収録されていない楽曲にも名曲が目白押しという点。

しかしながら、ビートルズの本領発揮はこれからである。

6枚めのRubber Soul。これはもう、ホントに名盤である。
ビートルズの、ROCKの方法論への数々の挑戦が本格的に始まったともに、
ものすごいマジックの力を持つ楽曲ばかりで占められている。

7枚めのRevolver。前作に続いて、これも名盤中の名盤。
ここらへんになると、‘ライヴはしない’宣言の恩恵で
アルバムとしてのトータル性やサウンド構成に関する
たくさんの試行錯誤を惜しげもなく搭載しだし、
‘スター’ではなく‘アーティスト’としての印象がビートルズという名前に纏われだすことになる。
恐ろしいのは、このアルバム以降、一般のファンと同時に、
ミュージシャンやジャンル違いの音楽家たちにも
多大なインスピレーションやアレンジメントにおける影響を与えるようになる。
この『一般のファンと同時に』という部分が、
ビートルズを他と異なる地平線に置いているゆえんである。
Revolverには、次の、ビートルズの最高傑作と呼ぶ人も多いSgt.Pepper's~よりも
楽曲自体のクオリティとしては優れているものばかりだ。
特に最期を締めくくる「Tomorrow Never Knows」。
90年代以降になり、あまたのミュージシャンやバンドがカバーしたが、
このビートルズの原曲を超えるものはない......というほど、完璧なテイクである。
(これも、いわゆるベスト盤には通常、入ってはいない)

8枚めのSgt.Pepper's~。
このアルバムが世に出ていなければ、その後の多くの名盤は生まれていない。
曲毎の切れ目のないトータルコンセプトパッケージ、
全体を通して貫かれる効果音を生かした独特のサウンド、
‘ライヴでの再現性’という呪縛から解き放たれた複雑な楽曲構成と多種多様な楽器使用......
一部では、楽曲そのもののクオリティから(特に現代となると)「それほどでもない」とも
言われているが、少なくともROCKミュージックの系譜に新たに芸術性/トータルアルバム性を
導入したことは時代を大きく進めた功績がある。

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9枚めの、通称White Album(ホワイトアルバム)
メンバー4人が、それぞれイニシアチブを明確にとり、
たまには1人だけでもレコーディングを敢行したリラックスした2枚組。
この中には、ヘヴィメタル(「Helter Skelter」)、カリプソ(「Ob La Di~」)、
コンクリート(「Revolution No.9」)など、以後の新しいROCKの先鞭を付けたものや
単純に‘良い曲’がそれほどアレンジに時間をかけないで
いわば‘剥き出し’のままの曲として収録されている。

10枚めのYellow Submarine。
サントラ版の形をとっているが、楽曲の楽しさで言えば、最高のバリエーション豊かな作品集。
(米国でのコンピ盤、Magical Mystery Tourの方をオリジナルで系譜に入れることも可能だが)
シュールなアニメーション映画の中で使われた楽曲がまとめられ、B面はサントラのBGM集だが、
このアルバムのA面の「Hey Bulldog」は個人的に大好きなロックンロールの名曲、
そして‘NHKみんなのうたにでも出てきそうな’楽しさいっぱいの「All Together Now」がある。
(いづれも多くのベスト盤には未収録なことが多い)

そして11枚め。録音時期としては最期となる超名盤Abbey Road。
もう一度、バンドとしてのビートルズのアルバムを創ろう、と集まった4人の
奇跡とも言うべき名演奏。楽曲の良さ、アレンジの見事さ、アンサンブルのスマートさ、
そしてジャケットのアートワークに至るまで、ジャンルを超えて「最高」の一枚。
聴いてないと始まらないくらいの完璧さである。

12枚めLet It Be。
実はこのセッションがあったからAbbey Roadは生まれたと確信している。
プロデュースを巡って発売が前後し、記録上の‘ラストアルバム’となったが、
このアルバムには新曲としての名曲と最初期のグルーヴ感がライヴ演奏として残された。
むしろそれは、あの有名なTop-Hill Concertの動画を観る方が理解できる。
ビートルズは、‘でたらめ上手いROCK BAND’なのである。
コピーに挑戦してみればいい。どう演ってもあんな風には(魅力的に)演奏できない。
ワン、ツー、スリー、フォーのカウントでいきなりピタッとオンリーワンなグルーヴが弾ける
ホンモノのバンドなのである。

ビートルズ、特にRubber Soul以降のアルバムはすべて1曲目から最期の曲まで、
流れと意図に基づいて並べられているものばかりで、ここからが重要だが、
そのすべてが、『その流れどおり聴くと、最高に良い時間を過ごせる』ことを痛感するのだ。

だから、ビートルズは、ベスト盤で聴いてはいけない!!!!
少なくとも、最初にビートルズを聴く時だけは、アルバムで聴いてほしいのである。

.....我ながら、結論がどうも説得力に欠ける気がするが、もっとたくさんの人に
だまされたと思って、アルバム単位で聴いてほしいなぁ。
第5期「ヌォーヴォ・メタル・クリムゾン」

対象アルバム「スラック」「コンストラクション・オブ・ライト」「パワー・トゥー・ビリーヴ」

個人的にいえば、この‘ヌォーヴォ・メタル期’と呼ばれる最近年のクリムゾンは、第3期の黄金期と肩を並べるくらい好きである。
始まりは、ごく単純なフリップの発想。
第4期のアンサンブル主体による色彩豊かな新しい現代音楽に音域と層としての厚みを付け加えるとどうなるのか?
この期のスタートを告げるアルバム「スラック」において、
ギター×2、ベース/スティック×2、ドラム×2という、
実にわかりやすい構図をフリップは用意した。
しかしこれは徒労に終わる。
第4期のクリムゾンに新たに加わったのは、
フリップの音楽教室の弟子で、レヴィン以来、初めてレヴィン並みにスティックを演奏するテクをもつトレイ・ガン。
「スラック」では、基本、リズムキープに徹している役割を演ずるものの、
めざましい手ワザの発達とそもそものバスドラのキックの強さで
ブラッフォードの存在感を上回るほどに短期間に成長するパット・マステロット。
まぁ、最初のアルバム「スラック」においては、この腕自慢の6人が集まったところで、
誰かが‘自重’、‘お休み’しなきゃ、うるさすぎるのである。
うん、わかりやすい。

この期のクリムゾンのサウンドは、真っ正面から「ロックミュージック」なのである。
ココが好きだ!
よく定年を迎えた人が、蕎麦を打ち始めたり、おばさんがカラオケに情熱を持ち出したりするでしょ。
あれです。
破壊衝動とか、新しい音楽とか、もうどうでも良くなったオトナたちが、
どうしても自分たちから切り離せない知的なヨロイを纏うクセと、ようやく気楽に向き合うことができるようになったのである。
技術的に秀でたもの、自分も苦しめられるほどのスコアをあえて書き、一生懸命に練習してできるようになり、
それを録音する。おそらくレコーディングでは、スタジオに入ったメンバーを他のメンバーが、「どこで間違えるかな?最後までちゃんと弾けるかな?」と和気あいあいと鑑賞しているに違いない。

もともと、おそろしくテクニックがあるメンツによる高尚なレクリエーションである。
極めて高度に洗練された、良い意味で前衛性を中和した完璧なパッケージングを目指すユニットである。
ROCKはもはや、命をかけたフラストレーションの表出とは別の意味の、存在意義を手に入れたのである。
断っておかなきゃいけないのは、歴代のクリムゾンのサウンドのなかにあって、この期のものは突出してヘヴィー、むしろ‘ヘヴィネス’とでも言うべきうるささである。

ウタものの楽曲では、「ダイナソー」「ピープル」(以上「スラック」)「プロザック・ブルース」(以上「コンストラクション~」)「アイズ・ワイド・オープン」(以上「パワー~」)等の名曲があるが、
この期の特徴はインスト曲の充実である。
「太陽と戦慄パート4」「フラクチャード」「デンジャラス・カーブ」「レベル・ファイブ」など
これまでのクリムゾンのインスト曲と比べて、はるかにスマートで知的である。
人生の最晩年の愉しみのラインナップのひとつに、‘大音響でROCKを演る’という選択肢が加わった爽快な事件である。

アルバムにおける演奏という観点では、クリムゾンは最高のレベルに達している。
簡単にできる曲など1曲もない。
リズムが複雑、シンコペーションが変、変拍子ばっかし、アンサンブルが完璧・・・。
どの楽曲もひとすじ縄ではいかない。比較的、レクリエーション色まるだしのウタものに関しても、
「あ、こうすると、かなり変になるよね、エヘへ...」みたいなノリである。

クラシックのスコアによる規律を持ち込むことに始まり、
ブルースのノリとの明確な決別、
ジャズのインプロへ見いだした突破口の追求、
それらのアプローチから、ロックミュージックの新しい境地を切り拓いてきたクリムゾンにとって、
「もう、新しいROCKとかどうでも良いし...。それにウマいとかスゴイとかもどうでも良いし...。
ただ音がでかくないとやっぱし俺たちダメだし、感情任せにテキトーに演るってのもアレなんだよね~」
という感覚である。たぶん、フリップにとってはこれまでで最も楽しかったクリムゾンなはずである。
本人たちの愉しみ方とは裏腹に、これは少なくとも私個人にとって、ROCKをずっと演り続けるとてつもなく大きな意義を提示してくれた。

■「スラック」
‘ダブル・トリオ’‘ダブル・デュオ’などとその形態から形容された、
ヘヴィというよりヘヴィネスというべき第5期クリムゾンのスタート。
第4期で極めたアンサンブルを根底に、すべてのパートを和音化するとどうなるのか...という
実に奇想天外な発想で創られたアルバムである。
まぁ、想像した通り、どちらかと言うと自由闊達な、めちゃくちゃな演奏に終始した楽曲の方が面白い。
一方で、このアルバムには、「ダイナソー」「ピープル」「ワン・タイム」といったブリューのソロアルバムを含めても、デキの良いウタもの楽曲が並んでいる。
意外と、このユニットにおいては、誰かが抑制を強いられる楽曲の方が、圧倒的にクオリティが高い。

■「コンストラクション・オブ・ライト」
クリムゾンのインスト楽曲の代名詞とも言うべき「太陽と戦慄」のパート4が収められたアルバム。
ベース/スティックのトレイ・ガン、ドラムのパット・マステロットがそれぞれパートで自分だけとなったことが良い方向に向かった。
表題曲「コンストラクション~」と「フラクチャード」
(これは、第3期クリムゾン「暗黒の世界」収録の名インスト曲Fructureの続編的楽曲)
「太陽と旋律パート4」など、必聴である。
この時期のクリムゾンは、よくインプロヴィゼーションに不満が言われるが、
この期のライヴアルバムの「ヘヴィー・コンストラクション」に収録されているインプロ3曲は、
すべてのクリムゾン期において、ベストのものと思う。
変拍子にもかかわらず、これだけアタマのビートを強く出せるワザ。
ジャズ的な、各楽器による自由なシンコペーションの交換に留まらない、全体的なサウンドによる抑揚。
これらは明らかにロックミュージックだけにしか表現できないインプロヴィゼーションである。

■「パワー・トゥ・ビリーヴ」
現代的な音づくりのマエストロの一人、MACHINEがエンジニアリングを担当したアルバム。
実は勉強不足でこの人のことはよく知らない。残念ながら、ラップ系が多いようなのでそれほど興味もないが。
このアルバムはこの人のおかげで随分と音の今っぽいものになって、私は大好きです。
ウタものの「アイズ・ワイド・オープン」、インストの「レベル・ファイブ」「エレクトリック」「デンジャラス・カーヴ」は必聴である。
例えば、グランジ系とかヘヴィ・メタル系とか、野放図な大音響をウリにするバンドは多いが、
このアルバムに代表されるこの期のクリムゾンは、その誰よりもヘヴィーだ。
この時期の演奏に比べると、あの黄金期の第3期のクリムゾンですら、
「猫のようにおとなしく聴こえる...」
若いパワーなんぞ、この還暦まわりの人たちのパワーには、足元にも及ばない。
頑張らんといかんですよ、若い人は。少なくとも、少なくとも、パワーでは。強調したったわ。

これで、いちおうクリムゾンは終わりです。

キング・クリムゾンそのものであるロバート・フリップは、
常に音楽を構造的に構築する一種の頑固なクセが伺える。
そもそも無秩序であるべき衝動的な破壊欲求に基づくサウンドを論理的にコントロールしようとする性癖。
このどこまでも青臭い英国人気質というか、知的に見られたい願望が構築した音符構造と
対局に位置する音構造は、
私は、VanDerGraafGeneratorだと思う。
ルート音を基盤に、倍音の3つくらいの重ね。
スケールで言えば、ペンタトニック、オンリーみたいな、とりあえず力任せの音構造でありながら、
どこか規律を印象づけるサウンド。
秩序を志向しない秩序...。
音そのものの力だけを信じようとするこの姿勢に、
不思議とフリップの流麗なギタースケールはマッチする。
たとえば、メル・コリンズのサックスやジョン・ウエットンのベースなど
クリムゾンの歴史のなかで凄いインプロヴィゼーションプレイを展開した記録はあるが、
残念ながら、一時期のマイルス・デイヴィス・バンドでのジョン・スコフィールドのプレイなどを聴くと
‘おとなしいブルースフレーズ’の域を出ることはない。
なるほど、ジャズの側から聴けば、それは「鍛錬と知的センスの足らないダメな演奏」なだけなのかもしれない。
フリップが、本能的に回避したい地点は、こういうところなのではないかと思う。
それは、彼が意識しているかどうかではなく、彼自身が‘カッコ悪い’と感じてしまうのだと思う。
あらためて、クリムゾンのすべての期のアルバムを聴き通してみて、強くそんな印象が残った。
第4期「アンサンブル・クリムゾン」

対象アルバム「ディシプリン」「ビート」「スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペア」

第3期で目標地に達したフリップに必要だったのは、空白の時間だった。

彼に新しい境地がまだ残っていることを見いださせたのは、エイドリアン・ブリューという
フリップとはまったく異質の、というか、あらゆるギタリストとは根本的に演ることが違う
天才ギタリストである。それもアメリカ人!?
ちなみにベース/スティックのトニー・レヴィンもアメリカ人。
フリップは、暗黙のクリムゾンのルールを簡単に破ったのである。
かつてのメンバー、ジョン・ウエットンも
「アメリカ人のいるクリムゾンなんて、クリムゾンじゃない」と発言している。
ま、確かにサウンドはそれまでのクリムゾンではないのだが。
考えてみれば、クリムゾンのリーダーであり、クリムゾンそのものでもあるフリップが、
「自分以外のギタリスト」をパーソネルに加えるのだ。
すでにここから、フリップのなかに、これまでのクリムゾン像はない。
‘ディシプリン期’とも言われるこの期は、いわゆるクリムゾンフリークからはあまりウケがよろしくない。
この期のクリムゾンを、私は個人的にその音楽的特徴から「アンサンブル・クリムゾン」と呼んでいるが、
断っておくべき点が2つある。

まず、歴代のクリムゾンユニットのなかにあって、エイドリアン・ブリュー、ロバート・フリップ、ビル・ブラッフォード、トニー・レヴィンの4人からなるクリムゾンは、技術レベルにおいてはダントツにウマいということ。
特にベース、またはスティックという楽器を扱うトニー・レヴィンの存在は大きい。
グレッグ・レイク、ボズ・バレル、ジョン・ウエットンといったこれまでのベーシストのベースプレイは、若干、後ノリの、要するにどこかブルースフィーリングを引きずる、よく言えば人間的、悪く言えばルーズなリズムエッセンシャルであった。
だが、トニー・レヴィンのプレイは、好き嫌いはともかく、まったくのジャスト・オン・タイムである。
さらにブラッフォードのドラムプレイは、その壮烈なテクニックと反比例するかのごとく、一貫して冷静で、特に手ワザに驚異的な進歩を見せている。相対的にアタックの弱めのキック=バスドラが、ジャストのタイミングでレヴィンのベースが載るとこれまたビックリ!実に前のめりのリズムエッセンシャルを刻む。
ライヴ盤を聴いて、さらに幸運にも目の前で4人の演奏を聴けた実感で言えば、まさにクリムゾン史上最強のリズムアタックサウンドである。
スタジオ盤では、決して想像できないグルーヴ感があることは見逃してはいけないこの期のクリムゾンの‘新しい’特徴である。

もうひとつ。この期のクリムゾンを聴く上で認識しておきたい点がある。
残念ながら、‘ロック’というカテゴリーに入れるしかないものの、この期のクリムゾンは間違いなくこれまでにまったく存在しなかったサウンドを創造している点である。
よく‘トーキングヘッズ化した’とかも言われるが、トーキング・ヘッズも好きな立場から言えば、‘冗談じゃない、まったく違う!’となる。
もともと、鬱積した感情の発露とも言うべき破壊衝動というスピリットこそロックミュージックの出発点であったが、
1980年代に入って、もはやそんなものは必要ではない、いや、そんなものはもう存在しない!時代における、
ロックミュージックのあり方、色彩豊かで、微妙な変化を味わう、そんな現代的な音楽の存在意義を世に問うコンセプトの成型である。
本来、それはもうロックミュージックではないのかもしれないが。

及ぶものがないほど強力な破壊衝動と屈折した自己意識に支えられた、それ故にどこかモノクロームな表情のクリムゾンは、ここにはいない。
その意味でこのユニットは、クリムゾンとはまったく異なるものである。
ジム・モリソンやジョニー・ライドンの言を待つまでもなく、とうの昔に「ロックは死んでいる」のである。
この期のクリムゾンが残した3枚のアルバムは、クリムゾンが初めて、2枚以上のアルバムを同じメンツで録音した記録であるが、基本的にこの3枚のアルバムは‘1枚’のアルバムである。

この期のクリムゾンを聴いていると
「ヘェ~、1974年のクリムゾンが好きなの。ロックが好きなんて、けっこう古いよね。」
と言われているように感じる。
まぁ、少なくとも、単に難しすぎるという理由で、
どんなテクニック自慢のプロミュージシャンであっても、コピーすらできないことだけは確かだ。

■「ディシプリン」
世界中が期待した‘新生クリムゾン’は、本当に新しいものだった。
‘象の鳴き声’‘金属の擦れ音’‘サイレン音’などの、言わば効果音を弦楽器特有のテンションで、
ひとつの「ソング」のなかに投影することに成功したエイドリアン・ブリューのプレイは、
単に奇をてらうという域を軽々と超えている。
フリップ、ブリュー、そしてレヴィンのスティックと3つの弦楽器における完全同期
と変形精製されるように半拍ずれていく~元に戻るという輪還する美しさ、
不協和音の色彩の豊かさ・・・。
過去30年ほどのロックミュージックの歴史において、真に画期的なサウンドである。
この期の最初のアルバムではあるが、まぎれもなく完成形である。

■「ビート」
前作で完成形を見たサウンドに、ほんの少しリズムのアプローチのバリエーションを付加したというのが本作である。
ポリリズム的な鼓動は前作でもベースとなっていたが、
本作では‘ニューロティカ’‘トゥーハンズ’といった楽曲において、
変幻していくリズムと浮遊するリズムという
高度なアプローチでさらに色彩豊かなサウンドを創ろうとしている。

■「スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペア」
3部作(?)を締めくくるこのアルバムの目玉は、「太陽と戦慄パートⅢ」である。
元祖「太陽と旋律」の、あのヘヴィな変拍子リフをアンサンブルで表現したらどうなるのか?
結果は非常にドライブ感のあるソリッドなものとなった。
ビート感の強さを印象づける展開も「太陽と戦慄」の継承/発展アプローチとしてはふさわしいものではあるが、惜しむらくはフェイドアウトではなく、キッチリと終わってほしかった楽曲。
あとは「スリープレス」というトニー・レヴィンの超絶チョッパーベースが炸裂する楽曲。
直に見たが、あの‘スティック’を置いて、
レヴィンはへらへら笑いながら、普通のプレシジョンベースを
親指と薬指と小指で16分音符で一音ずつチョッパーしてた。
中国雑技団のなかにでも、真似できる人がいると良いが、
もし世界に一人もいないとすれば、レヴィンはわれわれが知っている範囲の人間ではない。