特に、推敲もそこそこに始めます。従って、追って加筆とかするかもです。ごめんなさい。

第1期「シンフォニック・クリムゾン」

対象アルバム「クリムゾンキングの宮殿」「ポセイドンのめざめ」「リザード」

誰もがキング・クリムゾンという名前を聞いて思い浮かべるのは、
ファーストアルバムのジャケットであり、「21世紀の精神異常者」であり「エピタフ」であろう。
これから先、随分といろんな変化をたどるキング・クリムゾンだが、
この2曲は、キング・クリムゾンまたはロバート・フリップが目指したサウンドの完成形なのだろう。
キング・クリムゾンは、私の個人的な分類では5期に分かれるが、すべての期を通じて
クリムゾンの楽曲の大きな特徴と言えるのが、ロックミュージックの本能とも言うべき
破壊衝動を基盤とした(要するに‘ウルサイ’)楽曲と、
極端に感情を抑える(要するに‘音が小さい’)静寂楽曲の両立、あるいは相互依存である。
つまり、いわゆるポップチューンというものは1曲も存在しない。
シド・バレットを失ったピンクフロイドはすべての音をシドがいる空間を創りだすために構成し始めた。
イエスは驚異的な演奏技術をベースにリズムの変化、シンコペーションの強弱で音空間のうねりを披露する。
ジェネシスは、いかにも英国的なシニカルな世界観を寓話を音楽で立体化させるとともに、
ピーター・ゲイブリエルの特異な感覚をシアトリカルに表現することで
ステージパフォーマンスの重要性を音そのものを凌ぐほどに増幅させる。
キャラバンはカンタベリー地方という極めて特色のある田舎の
良くも悪くも決して逸脱しない土着的な視線を紹介する。
‘プログレッシブ’というカテゴリー命名がどのような意図で誰の発案かはわからないが、
・・・・それぞれの確固としたサウンドへの志向こそが、
いわゆる‘プログレッシブ’バンドがプログレッシブバンドである所以なのだろう。
しかし、イエスや後期のフロイドが異常なまでの金銭収入にこだわりを見せるのは
どうしても理解できかねるのだが・・・。

目指したサウンドのひとつの究極のカタチがファーストアルバムですでに完成されてしまったことは、
我々よりも演る側にとっての方が、より重要な問題である。
ロバート・フリップ自身は、当然そのことに気づいており、セカンドアルバムでは
いわゆる佳曲はいくつか存在するが、ファーストアルバムの中のどの楽曲にも及ばない。
この期のクリムゾンの音の特徴は、メロトロンという擬似オーケストラ音を奏でる楽器の使用に代表される
クラシックミュージックへのオマージュ的アプローチである。
この着想において重要なのは、メロトロンという楽器の存在ではなく
クラシックミュージックへの構造的なアプローチという点である。
これはクリムゾンのDNAとも言うべきものである。
もっと限定的に、あけすけに言えば、それはアンチブルースなのである。
フリップ自身の「ブルースに影響を受けたことは一度もない」というコメントにもあるように、
この指向性は、元来、ブルースから派生したロックミュージックにおいては、きわめて異系の存在である。
「ブルースっぽさを感じさせない」のではなく「ブルースが大キライなコトを常に意識する」ほど
徹底的に音の構造の中からブルーススケール(またはペンタトニックスケール)を排除する、偏執狂的な志向。
この一点が、クリムゾンを他のプログレバンドと明確に区別させるものである。

丁度、マイルス・デイヴィスがカインドオブブルーセッションで
モードによるサウンドアプローチを開始したときに、
ビル・エヴァンスのプレイを同じ空間で体感したマイルスが
「白人‘ごとき’に(マイルスは確実にこの語を入れたという)ジャズのグルーブがわかってたまるか」
と言ったように、ブルースもまた、本来、黒人の、すなわち特定人種特別のリズム感や音の構成、
大げさに言えば「魂」のサウンドとグルーヴ感にその‘らしさ’を依拠している。

クリムゾンの音楽が、どの期においても非常に特殊な響きを持っているのは、
フリップの弾くギターと構成する音構造が、いっさいブルース・フレイバーを拒絶している点にある。
おそらく、フリップは、白人である自分が演奏する際、いや、単に聴く際にも、
あらゆるブルース音楽のグルーヴに多分な違和感を感じたのだと思う。
「モノマネ、あるいは二番煎じ感覚への強烈な嫌悪感」がクリムゾンのサウンドなのだと思う。
これもひとつの破壊衝動である。

■ファーストアルバム「21世紀の精神異常者」
確かに名盤である。全曲、名曲である。もう、個人的には聴き飽きたが。
ファーストアルバムに対して記しておきたい思いは、2点。
ひとつは、究極のサウンドではあるが、このサウンドがクリムゾンのすべてを代表するとは思わない。
むしろ、フリップの完璧主義的偏執狂ぶりとある種の‘若さ’を留めているものである。
もうひとつは、Moonchildという楽曲の露骨なメロディーラインのパクリである
日本人フォークデュオ「ばんばん」の情けなさ。
焼酎いいちこのCMで「またきみぃに~」と初めて耳にしたとき、
実はMoonchildの日本語カバーだと思い、とても微笑ましい感情を覚えた。
それが、オリジナルだと言う。‘突然浮かんだメロディーだ’と言う。
坂本冬美の高度な歌唱力を借りて、オリジナル然とした雰囲気を強化する・・・。
・・・・・・・・・・・いいオトナのすることじゃない。
■セカンドアルバム「ポセイドンのめざめ」
アルバムタイトルの和訳解釈は、いろいろと取りざたされていたが、むしろ秀逸だと思う。
ファーストアルバムと2枚組で出せばいいのにと思うほど、サウンドは一緒である。
一点だけ、後のクリムゾンサウンドの方向性に係る非常に大切なエポックがある。
ディシプリン・クリムゾン期を待つまで、
クリムゾンは一度として固定メンバーでアルバムを録音していないが、
このセカンドの特筆すべき点はジャズピアニスト、キース・ティペットの参加である。
クリムゾンはこのアルバムでファーストからの変化した点を言えば、ジャズ・サウンドへのなだらかな志向である。まだ、セカンドの時点では‘なだらか’なのである。
また、このセカンドまで参加してるベーシスト/ヴォーカリストのグレッグ・レイクの歌のうまさ。
まあ、聴いて損はまったくない。
■サードアルバム「リザード」
う~ん、率直に言うと、ヒドい・・・。
クリムゾンファンの中には、このアルバムを非常に褒めちぎる諸氏も少なくはない。
その気持ちも、実は、それほど分からなくもないのだが・・・。
だが、私の感想を率直に言えば「素人臭いジャズマンの作ったロックアルバム」。
すなわち、このアルバムを大雑把にまとめると、ジャズの音構造への一心不乱のアプローチである。
ひとつの目玉はライバルとも目されていたイエスのヴォーカリスト、ジョン・アンダーソンの参加だろう。
残念ながら、さほど効果的なケミストリーを見せるには至らず、
むしろこのヴォーカリストの凡庸さを際立たせている。・・・とてもへたくそだ。ダメを押しておく。私はイエスというバンドはむしろ非常に好きな部類なのだが、曲によって不満が募る場合もけっこうあって、その場合はほぼこのヴォーカリストのせいなのである。もちろん、初期の4枚くらいのアルバムにおいてだけだが。
閑話休題。
シンフォニック・クリムゾン期特有の厳密に計算されたバンドスコアに基づくパフォーマンスには間違いないが、
このアルバムではもはや‘オーケストラちっくな’シンフォニックサウンドは特徴ではなくなっている。
すべてのクリムゾンのアルバムの中で、最後に聴いても構わない、クリムゾン・フリーク向けのものだと思う。

次回はもっとも奇妙なブルース・クリムゾン期を。
アルバムで言えば、「アイランズ」と「アースバウンド」。