典説『里山の自然』 | 典風呂

典説『里山の自然』





皆さん今晩は!典風呂のお時間です。九州はまだ気温は低くて寒いです。が、日差しはすっかり春の日差しです。春本番も、もうすぐって所です。

メモ各新聞社の新聞に社説が有ります。典風呂にも典説が有ります。
そこで今夜は『里山の自然』について考えて見たいと思います。まず『自然』とは何でしょうか?
広辞苑では//天然のままで人為の加わらない様~~//とある。

それでは続けて『里山』とは、広辞苑では//人里近くにあって人々の生活と結びついた山、森林//
今夜の問題の『里山の自然』とは何か?里山とは必ずしも自然ではない。あくまでも人為的な山、森林である。

最近のメディアの中に『限界集落』の言葉を良く目、耳にする。2月19日の朝日新聞から//限界集落、九州に2131 全体の7,7%都市にも存在//その集落の当事者の問題は深刻だ。大きな問題は鳥獣被害と『足』棚田、里山の農村景観の荒廃~~とある。

住む人のいない限界集落を体裁だけで維持していいのだろうか?と言う疑問にぶつかる。
多分、「体裁だけで考えてはいない。棚田は日本に於いて治水ダム、国家の安全保証の問題だ。」との意見も多い。

しかし、もっと地球規模の視野で日本を見た時、今、人々は本来の意味を持つ自然から素直に撤退するべき時ではないか?随分前の話になるけど、新日鉄釜石の釜を止めた翌年、鮭が釜石にもどって来たのを知っているでしょうか?

ドクロ韓国での話し。これも昔の話になる。毎年、飛来する鶴の餌付けをいている場所にある日、誰かが餌に毒を入れた。その毒入り餌を食べた鶴はみんな死んだ。この事件は誰一番が悪いのか考えさせる。//毒入り餌を撒いた人が最も悪い?最初に餌付けをした人が最も悪い?人間を信じてたよった鶴が最も悪い?この事件、皆さんは誰が一番悪いと思いますか?

霧自然のなすがままに身をゆだねた時、そんなに道路が必要か?『国土の均衡ある発展』を掲げる政府、自治体、均衡ある発展を唱えるには無理があるのではないか?また、均衡ある発展を訴える人ほど不均衡を薦めている。そんな気がしてならない。

しし座全国のアフリカンサファリ自然公園、大分の山奥にもトラ、ライオン、象、諸々が生息している。ここの諸々の生き物はここに自然発生して人間に関係なく存在しているのだろうか?全国の猿山自然公園、人間が餌付けして人間が猿口調整している猿山、これも自然公園と言えるのだろうか?

結論。『ドクロそこのけ、そこのけ自衛隊が通る』この言葉が今の人間の自然感を象徴している。
故郷、古里は皆さんのルーツです。心の拠り所です。かけがえのない所です。しかし、自然からの勇気ある撤退、今まで使わせていただいた自然を自然に返す。今はその時ではないか?

棚田治水、他の問題は国交省の問題である。人々は限り有る地球の中に於いて自然の方隅につつましやかに生きる。人間はどんなテクノロジーを使っても自然をコントロールする事は出来ない。開発と言う名に於いて地球を傷付けた時、人間は自然からホロコーストされる。

かに座皆さん、里山を散策しながら『自然』の定義、今一度考えてみませんか?
//お断り、現存の人為的自然動物園を否定するものでは有りません。現在、限界集落在住の人々を否定するものでは有りません//この典説へのメール、質問はお答え出来ません。どこかでお会いする事出来たら、この問題、皆さんで考えましょう//           再見!