自分が直筆で書いた日記のうち、現存するものの一番古くは小学校6年生の夏まで遡る事が出来る。
彼女は野球少女であった。彼女は少年たちの中に一人混じって、夏の照り付ける日差しに負けじとグラウンドに立っていた。外野ノックが好きだった。大きなフライが上がる、落下地点まで力の限りに走る、ホームを目掛けて思い切り腕を振る、その全体が好きだった。
それは突然の出来事だった。監督の打つ、白い球を追い掛けるべきその時に、彼女はふと、その白い球の背景、果てしなく広がる空の青さを発見した。無論、彼女は空が青い事を知っていた。しかし空が青い事を意識の上で体感したのはその時が初めてだった。彼女はその“当然”にいたく感動した。練習から帰ると直ぐ様原稿用紙を広げ、それを書こうとした。空が青かったんだ、空が、やっぱり青かったんだと興奮気味に口ずさみながら。一息に三枚を書き終えた所で、それを読み直した。彼女は急にガッカリした。私が見たあの空は、こんなものじゃない、もっと、もっと、もっとだった。違う。全然違う。
彼女は初めて〈書く〉という行為の難しい事を知った。いやそれよりも、彼女自身の能力の拙いことを知った。それは彼女にとって衝撃だった。国語の成績が悪いことなんて一度だって無かった。寧ろ先生たちや大人からは「文才がある」などと誉められて過ごしてきた。彼女自身も少なからず優等生の自負があった。しかし原稿用紙の上には、自分の見た景色の欠片すら書けない嘘の文章があった。
彼女はその原稿用紙の前で縮こまった。そしてその内では猛烈に悔しがった。バカだバカだ、恥ずかしいやつめ、勉強しよう、言葉が足りない!いつかあの空を書いてやるんだ、私が感じた限りを書いてやるんだーー彼女はそう何度も何度も心に誓い、日に焼けた手のひらを爪痕が残るほど強く握った。
彼女が書いたその日記とも詩ともつかぬ下手くそな言葉たちが、私の最初の創作であった。彼女はその後、あらゆる風景と感情とを、何十、何百と書いていく事になる。
今、私は大学4年を終えようとしている。そして今、幼き彼女の方を振り返った時、込み上げてくる熱い血潮で以て彼女を力一杯抱き締めてやりたくなった。
丁度その時、それは突然聞こえた。幼い彼女の声。
「何をしてんだ!お前はまだ途上だ!お前にあの空が書けるのか!」