収納箱

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先ずは雑記帳として。用途は時期によって変更します。

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ある学生の話。

彼が画面に現れた時の妙な心地を今も鮮明に覚えている。彼がどんな容姿だと認識するよりもっと前に、「妙だ」と直感が打たれたのである。

彼を成すための輪郭は、どこか薄くフェードが掛かっていて、「人」としての何か決定的な材料を一つも持っていないような、「実在」と「虚構」の丁度境目に立ったような、そんな少年だった。

ぽつり、ぽつり、と話していくその言葉の隅は繊細に震えていて、よく聴いていないと消えてしまいそうな声で、彼は「フィクションについて」語り出す。
不思議と、そのか細い声とは裏腹に、彼の伝える「意味」は、驚くほど明白に、重く、鮮明に伝わってきた。


彼が生きた20余年のうち、多くは映画と共に在ったという。

「『ビッグ・リボウスキ』、何度見たか分かりません。僕にも、弟がいます。僕は、弟にだけ、映画の話をします。弟も、きっと、僕にだけ、話すのだと思います。ブシェミに、必ず、僕の目は向かう。『パルプ・フィクション』も、擦り切れるくらい、見て、見続けています。僕もつくりました。映画を。脚本も、映像も、演技も、編集も、全部、実力不足です。足りない。マフィアには、マフィアの、全然、当たり前で、普通の毎日があって、そして明日は、やっぱり分からなくて、その都度、泣いたり、笑ったり、するし、僕は、僕が見る目の前は、僕のつくるフィクションより、もっと普通で、当たり前で、もっとフィクションなんです。」


フィクションを描くということ。
「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。」そうして持続した物語の一直線上に、いつか鳴り響く「チャンチャン」という陽気な終焉。
その音色を響かせる作者〝たち〟を想った。
決して「チャンチャン」という音では形容でき得ない幾つもの話を絡ませる人々の、叫びにも似た合唱の音がする。

今日も、人が生きているという事実に、
「天晴れ」
「よくやった」
「しんどいよな」
「お疲れさま」
「何て事をしてくれたんだ」
「面白い」
「哀しすぎる」
「全然笑えない」
「ありがとう」
「それでも、どうか、幸あれ」

そう言いたくなる。