「うるせぇな、くそ」
石井寿弥は小さい声で不満を口にした。
口うるさく、目の敵にされてるとすら思える程、
上司は寿弥にきつくあたる。
寿弥は一流とまではいかないが、割と業績もあり、
企業としての名前も割と有名な、
いわゆる普通よりは少し良い程度の企業に勤めていた。
大学を卒業して、社会人になってから3年が経った。
寿弥は物覚えが早く、状況判断力も優れたものを持っており、
実力主義を謳う企業の中で史上最速のスピードで出世していた。
ただ、寿弥は給料はたくさん欲しいが偉くなって
責任を持つのはもっと嫌だ・・・そんな風に考える人間、
つまり向上心がまるでなかった。
寿弥は会社という組織の中の規則や慣習、
伝統にもまるで興味がなかった。
自分が判断して正しいと思える事はやる。
逆に間違っていると判断したものについては
例え社長の命令だとしてもやろうとしなかった。
また怒られるということに関してもまるで何も感じなかった。
上司に怒られるのでは・・・と思って、
分からない所を聞けずに戸惑っている同期をよそに、
いくら怒鳴られても根気よく上司に教えを請うた。
だから誰よりも早く仕事を覚えるのが早かった。
そんな根性のある寿弥を気に入った上司は、
寿弥をよく飲みに連れて歩いた。
誘われれば断ることなどせず、
とにかく仕事をしやすい環境を自ら作った。
その内上司は寿弥に怒鳴ることをやめた。
しかし、ある程度仕事を覚え、
その上司に教わる事はもうないと判断するや否や、
寿弥はその上司との関係を断絶した。
ある日、上司の亀山はいつものように寿弥を飲みに誘った。
「すいません、今日は無理です」
亀山の誘いを寿弥は初めて断った。
その素っ気なさを少し不満に思った亀山は皮肉まじりに言った。
「なんだせっかく誘ってやってるのに。
上司に誘ってもらえるなんて部下にとってこれ程幸せな事はないんだぞ?」
「それ、パワハラってやつですか?」
その言葉を聞いた瞬間は亀山はただ驚いていたが、
その表情はすぐに怒りの表情に変わった。
そして怒鳴ろうと思った時、
既に寿弥は営業の電話をかけていた。
寿弥にとって亀山はこれ以上時間を共に過ごすメリットを
もたらさない人物になっていた。
当然、その一件以来、亀山は寿弥により一層強く当たった。
書類の書き方に問題がなくても
自分の好みの文章にするように指示し、
新入社員がやるような雑務も寿弥にやるよう指示をした。
しかし、寿弥は自分があの日以来、
そういう立場に置かされるのを最初から分かっていた為か
淡々と業務をこなした。
その様子が亀山には苛立ちを覚えさせることも十分理解していたのだが。
その日も亀山は寿弥の報告書に難癖をつけた。
毎週金曜日は寿弥が早く帰りたがっていたのを知っていながら、
定時ギリギリに書類の訂正を求めてきた。
最も、この日寿弥は恋人であり今は生活を共にする麻美と
外食の約束をしており、
数日前から残業が決まっていた麻美を
1時間以上待たなければいけなかった為、
亀山の思惑を不快に思わずに済んだ。
あっという間に書類の訂正を終えた寿弥は、
まだ待ち合わせの時間まで30分以上あったので
時間潰しにインターネットのニュースを開いた。
寿弥の目に真っ先に入ってきたのは
『横浜市で女性の惨殺死体』の記事だった。
惨殺といっても記事には詳しい内容は書かれていなかったが、
寿弥自身横浜に住んでいた為、
犯人が早く捕まればいい・・・
ただその程度に考えていた。