人生に迷い何をしていいかわからないから脳みそを整理しよう -29ページ目

人生に迷い何をしていいかわからないから脳みそを整理しよう

幼い頃は死が怖くてしょうがなかった。
生きることに悩むうちに不思議好きも手伝って自然と精神世界に目覚める。
「スピリチュアル」が流行る前。
今の課題は「自分を愛すること」
自分を愛さなければ…この「〇〇しなければ」をクリーニング


先日の旅行は、お金持ちの友人と行きました。
長い時間を一緒に過ごす中で思ったこと。

「なんか私の歩き方…せかせかしてる…」



同じ速度でも、大人が歩いているのに小さいこどもがついてきてるかのような…
トコトコトコトコトコトコトコトコ…

もっと優雅に歩きたい!
そう思いました。
スピードを変えないまま、歩幅を少しだけ大きくして、、、背筋を伸ばして、、、
そうしたら、使うのを忘れさられていた筋肉が動き出しました笑
脚だけじゃない、腹筋、背筋、腰の周りの筋肉、、、
歩くのってこんなに腹筋使うんだ!
足音さえ美しい。

なんだかすごく心地いい。
優雅な歩き方を意識すると、自然と、立ち止まったときも座っているときも、いろんな所作を上品にしてしまう。

気品のある過ごし方、これは、ビンボーコンプレックスの私がむかーしむかし心の奥底に閉じ込めてしまった私の「のぞみ」です。

美しく生きていきたい
丁寧に生活したい
愛おしい物に囲まれたい
絵になるような佇まいに憧れる
匂い立つような色気のある女性になりたい
綺麗な声で、美しい日本語で話したい
日本の季節の行事を楽しみたい
朝はゆっくりお茶をいただきたい


そんな「のぞみ」はいつのまにか、「具体性がない目標は意味がない。こんなことしても1円にもならない。」という思考に追いやられていきました。

薄利多売。
時間がもったいないからとにかく早く動く、同じ時間内に合理的に多くをこなす。
もったいないから擦り切れるまで使う。
ボロボロになるまで働く。
高額で購入したお気に入りは、もったいないからあまり使わない。
安いお店でセール品を買う。
安いものは形があまり好きではない場合が多いが仕方ない。
デザインより実用性
夜更かしして、朝はギリギリまで寝たい。


私の「のぞみ」とはおおよそ対極にあることばかりやってきた。。。。。

ビンボーなくせに上品ぶったら恥ずかしい。もっとお金になることをしなければ。現実を見なければ。
こんなことばっかり考えてきた。

プロセスを楽しむ余裕なんてなくて、コツや即効性ばかりに意識が向かっていた。

でも、これらは辛すぎた現実を生きるために支えてくれた思考でもある。その時は、合理的にいっぱいこなすことにたぶん達成感に似たような安心感もあったはずだから。


ひとつ成長して、心に余裕ができて、今。
やっと自分の「のぞみ」に向き合える。
そしてあのときの私に、ありがとう。
私の「のぞみ」いっぱい満たすよ。

「今」この瞬間ビンボーなのは変わらない。
恋人もいない。
安月給。
無趣味。

でもめいいっぱい心豊かに過ごそう。
周りがどんな環境とか関係ないはず。

優雅に歩くことが定着したら私の中の何かが変わりそうです。予感です。
お金持ちになりたいのなら、そのつもりで振る舞う、そういう“気”に触れることの意味が肚に落ちたような気がする。

多くを望まず、密度を濃ゆく。

ゆっくりと美しく、優雅に歩きたい、人生も。


具体性も合理性も達成感も安心感も、あのときは必要だった。だけもほんのちょっとでも落ち着いてきて、少しだけだけど自分と向き合えるようになったとき、さっさと自分に言ってあげたかった。
「で?ほんとはどうしたいの?」と。笑


先日、一泊旅行に行ってきました。
緑豊かな土地で、リッチなホテルに泊まりました。

美しい自然の中、美味しいものを食べて、お散歩して…とってもご機嫌でした。

帰宅してからは現実逃避…笑
あ〜あの時間に戻りたいな〜。。。


ランチをしに道を歩いているとき、
ふと気付きました。
なぜ、旅行中はご機嫌だったのか?

旅行中はけっこう奮発して、色々と自分を満たしてあげていました。
あそこに行きたい、
あれが食べたい、
あれをしたいこれをしたい。
ふかふかのベット、
ふわふわのお布団、
美味しいお酒、
静かなお部屋、
緑いっぱいのお庭、
寛げるお風呂(温泉)。

日常で本当は自分が求めていることを、しっかり満たしてあげていました。

それに気付くと同時に、旅行以降の「日常」ではいかに自分が自分のことを満たしていないかを知りました。

例えば夕飯の買い物…
「今日は牛肉が食べ食べたい」
「あれ?安くなってない…うーん、旅行中に贅沢したし、こっちのサービス品の豚肉にしよう。」
家族がそれを焼肉のタレで調理
「あ…塩胡椒で食べたかった…うーんでも言えないし、タレにするか」
「もうおなかいっぱい、食べたくない。でも残ってる。うーん…食べるか。」


けっきょく食べたいものがあってわざわざ買物行ってそしていらないものを食べてる。Σ(゚∀゚


例えば仕事帰り…
「ゆっくりコーヒーが飲みたい。あそこのカフェに行きたい」
「でも行ったら遅くなって家族が心配するか…」
「やめよう(´ω`)」
「そうだ、疲れてるなら早く帰って家でゆっくりしよう!」
早く帰宅した分、家族の愚痴をひたすら聞く。
「聞きたくないけど、発散したいんだよな、きっと…聞かなきゃ」


家族のためにカフェを諦め、そして早く帰って愚痴を聞き自分はまったく休まらない(´ω`)


例えば…
「ネイルがしたい♡」
夕食後。。。
「なんか疲れた。やりたくない。めんどくさい。」
「明日でいいや」と、かれこれ1ヶ月。


ネイルしたいはず、可愛くしたいはず。
そして毎日手入れのされていない自爪を見ては後悔。なぜ?(・∀・)?


「めんどくさい」も大事な心の声だと思っていたけど、最近もしかしたら違うかも…?と、感じています。

仕事はけっこう、自分にフォーカスしてたので、やりたくないことを断ったり、無駄に見えてもやりたいことをやって結果を得たりしていたのですが、一番大切な日常をおろそかにしておりました。

そして自分の日常の身近な希みはなぁんにも叶えずに、やりたいことや人生の目的ばっかり探して「見つからない」って悩んでる。


そうか…

今日は、仕事の後にカフェに来ました。
コーヒーを飲んで、そして、夕飯に響くかもしれないけど、どうしても食べたくて、サンドイッチをいただきました。
びっくりするくらい美味しい(´;ω;`)♡


私は、辛いことがあると色んな人のブログや本を漁りまくります。

普段からいろーんなブログや本を読んではいるのだけど、
辛いときは「漁る」んです。
ある言葉を探して。

人に話したくもなります。話したくなるというか、
聞いて欲しくなる。
これは一種のカタルシス的なものだと思っていました。

だけど違ったかもしれない。

「大丈夫だよ、気にすんな」
「大丈夫、誰もそんなこと思ってないよ」
「大丈夫。」

実際に誰かに話して励ましてもらうことは多くない。
でもほんとは、話を聞いた上で「大丈夫」って言って、認めてほしい。安心させてほしい。
この出来事によって、自分の価値がなくなることはないのだと信じさせてほしい。

「大丈夫」って言葉で、自分を丸ごと受け入れてほしい。

誰にも話せないから、ブログやら本やら読み漁り、
自分を肯定できる安心材料(文章や考え方、、、)を探し回ってしまう。

影響は受けるけれど、その言葉そのものが私な訳ではない。
私は探し出したその言葉を血肉にしているわけではない。
慰めているだけだった。

“誰か”に、全部全部、大丈夫だよって言って欲しくて。
自分のこと信じてないから、“誰か”に正解って言ってもらわないと自信が持てない。

私が私に、本気で「大丈夫」って丸ごと受け入れることが必要だったのか……。
丸ごとってむずかしい。
やっぱり自愛ってむずかしい。