日記

日記

日々の徒然

母が亡くなってから初めての母の日を迎えた。自分には子供が無く、母の日といえば自分の母親に感謝する日と決まっていたので今年はどんな気持ちになるのかなとぼんやり考えていた。

 

ここアメリカでは祝日といえばすぐに家族が集まり何やら賑やかに過ごしていることが多い。私も夫も家族とは遠く離れているので、いつも家族の集まりはうらやましく思っていた。かつての同僚などは「面倒だし煩わしいわよ」というがやはりそれはそれで煩わしくなってみたいところなのである。

 

その日はマンションの外廊下を賑やかに歩く様子が聞こえたり、外からは何やら忙しく幸せそうな空気が伝わってきた。少しだけ感傷的な気持ちになりそうだったので朝からエナジードリンクを飲み、家事を頑張ることに決めた。実際に忙しく体を動かしていたらいつの間にかぼんやりとした気分はどこかへいってしまった。

 

夕方になってやっと母の為にお線香を炊いてみたのだが、母との思い出と同時に色々なことを思い出してしまった。

 

私は2019年の夏、コロナウイルスが騒がれる半年ほど前に25年勤めていた会社を辞めた。数ヶ月息抜きをしてまた新しい仕事に就くものと思っていたらパンデミックとなり世界が急変した。

 

街はロックダウンで不要不急の外出は制限され、買物は人混みが怖くて24時間営業のスーパーに夜中の2時頃に出かけた。当時 許可されていた「犬の散歩」は唯一の気晴らしだった。そんな中で夫が生活費は自分が稼ぐから家の中のことは任せると言った。夫の責任感というか思いやりに心から感謝したダルマ そして当時53才の私が初めて専業主婦となり、成り行きでリタイヤが確定したのであるほっこり

 

夫は緊急医療系の公務員なので仕事量は減るどころか未知のウイルスを恐れて休みがちになる同僚もいて、より忙しくなっていた。当時は夫を仕事に送り出すと、もしウイルスに感染したら隔離されて帰って来なくなるのかも知れないと泣きそうな気持ちで過ごしていた。

 

日本は海外からの入国を厳しく制限したので、自然に日本から足は遠のいた。母とは毎日のようにビデオ通話をして励ましあったが一方で喧嘩も多くなっていった。

 

その頃からだろうか。気付けば母は日毎に気難しくなり、ありもしないことを妄想しては関わる人や家族を責め立てるので、こちらも本気で腹を立てて否定したり説得したりしていた。当時は私も必死だったが、今思えば鬱病の悪化や認知症が始まっていたのかも知れなかったのだと容易く想像できる。母はその後、精神病院に入院して1年を超えた頃に亡くなった。精神科ということもあり医師の治療方針で直系家族の関わりは絶たれたので母には同情したが、正直内心ほっとした部分もあった。

 

自分の中では、コロナ禍もあったし夫の仕事の関係もあって家を空けられなかったので12月になったら一時帰国して母に会いに行こうと決めていた。精神はともかく身体の状態はとても良いと聞いていたので、まさかその前の9月に母が逝ってしまうとは想像が及ばず困惑し後悔した。母には会いに行くことさえ伝えていなかったので彼女に普通の感情が残っていれば見捨てられたと思っていたかも知れない。

 

母が亡くなった直後は優しい思い出と後悔でただ悲しむばかりだったが、最近は夫婦仲が悪いことに巻き込まれた子供時代、大人になっても過干渉で子離れができなかった母の数々の暴言も思い出すようになった。私なりに頑張って生きてきたのかな?仕方なかったのかな?と思う日もある。

 

こうした行ったり来たりの感情の中で母との関係はきっと一生をかけて自分の中で消化していかなければいけないが、今はまだ生きている自分を中心に都合よく考えていかなければと思っている。

 

私は煙が苦手なのだが最近は母のためにお線香を炊くようになった。くだらないけれど、たくさんの想いをのせたこの煙が本当に母に届いていると良いなと願っているコーヒー