先日、ふとたまたま、横で繰り広げられていた会話について、思ったことを書きたくなりました。
とある親子と施設の先生らしき人との会話です。
母「◯◯を昨日から忘れてたの?」
4才くらいの子「うん」
母「教えてよ〜、えー昨日も無かったんだよね?、もー教えてよ〜」
見守る先生らしき人
こんな場面でした。
まだ小さい子が忘れ物をするという状況は、日常茶飯事です。
小学生になっても中学生になっても起きます。
何才からが子供の自己責任なのか、そもそも自己責任なんてあるの?とか、様々な気持ちが浮かんできます。
未就学児の場合、私の意見としては、まだ親がしっかり見てあげなければならないため、このシチュエーションだと私なら「気づかなくてごめんね」が、真っ先に出ます。
周りの子は毎週持ってきて使っているのに、忘れた状態で過ごした日はどんな気持ちだったろう?と、その不快さを想像します。
また、私が気づいてあげられなかったから、ごめんねと、単純に思います。
私のリアクションは、一見とても優しそうに感じるかもしれませんが、過剰になりすぎると問題です。
忘れ物をした状態でどんなに辛かっただろうと想像して憂鬱になってしまったり、子供の忘れ物をしてしまった自責の念に駆られて、次の日から忘れ物がないか過剰にチェックするようになり、神経過敏で苦しんでいく人もいます。
親と子供以外に、「先生」というような社会的な立場の第三者が登場した場合、世間体とか社会性への優先度がぐっと上がります。
ここでプライドというものが出てきます。
プライドが高い性質を持っていたら、忘れ物をした場合、社会的な恥と捉えたり、忘れ物をするポンコツさの印象をつけられることに耐えられなくて、ごめんね。より先に、弱者である子供に「教えてよ」なんで教えてくれなかったの?教えてくれたらできたのに。と、責任を転嫁するようなムーブをする人もいます。
また見かけた先日の会話は、プライドによるものとも言えません。これがまた面白い。
例えば、我が家。
忘れ物を良くする私と子供たちです。
協力体制をとっています。
これは数々の忘れた体験からなるもので、絶対にこれは忘れてはいけないと言う行事や持ち物があった場合、まずその情報を持っていたら知らせること、知らされたらGoogleカレンダー等に入れること、
また、実際にそれが必要な朝にお互い気にして言うこと、こんな流れがあります。
今朝、水筒がいる日でした。昨晩お風呂で一回、寝る前に一回、朝起きたと同時に一回言う6才、、、
ごめんね、私忘れっぽくて。
もし、私が、「教えてよー」と言う場合は、「ごめんね、気づけなくて。」となります。
目の前に先生が居ても居なくても、同じです。
客観視、をしてみる。
主観は、とても自分にとって都合が良くなっていることがある。
うまく立ち回れない自分もいる。
だけれど、自分以外の人の思考を、受け答えを、
「知る」ことは、選択肢や世界が広がる体験となる。
他者の思考を知って、自分のものと比較して、自分がやばくないか、性格悪くないか、なんて比較をする(客観視というより自分がどうみられているかを気にしている)ことに留まる人も多い。
ここで強調したいのは、
他を知ることで、自分ならどんな声かけをされたいかな、どんなことを伝えたいか、
というアップデートです。
今の価値観もすばらしいけれど、もっと多様なバリエーションがある。
清濁さまざま感じて、言ってみて傷付いて傷付けて、たどりつく言葉や愛がある。
まずは周りに興味を持ってみる。
人々の声やストーリーが伝わってくる。
自分は、、、と自分のことも話す。
お互いにそれぞれ考えがあることを知る。
そして尊重する。
性質ゆえに合わないことも、バチバチすることもあるかもしれない。
それでも戦争しないで、コミュニケーションできたらと思う。