さわやか杯に出た。


Tが、ペナルティエリア内で思わずハンドをし、PKになった。

Rが、すかさず「ドンマイ!」と言った。

大したものだ。

おとなでもなかなか言えない言葉だ。


GKのYは、落ち着いて対処した。

隅に飛んだ難しいシュートだったが、はじき出した。

失点には、ならなかった。


交代してベンチに来たTは、泣いていた。

私は、そんなTには言葉はかけず、

プレー中の選手に指示を出していた。


ひとしきりして、Tは、私に、

「ごめんなさい。」と言った。

私は、「俺に言うんじゃなくて、みんなに言ったら?

今日の失敗を、繰り返さないように、

これから練習していけばいいんだから。」

そんなようなことを言った。



私がサッカーを始めた頃、しきりに、

「フォア・ザ・チーム スピリット」

ということが言われた。

自分のことよりも、チームのためになることを考える、

そういう精神のことだ。


メキシコオリンピックの時の代表チームに、

八重樫という選手がいた。

チームの大黒柱で、今で言えば、

本田や香川に当たるような選手だ。

その八重樫が、大会直前にケガをして、

プレーできなくなった。


八重樫はどうしたか。

「今の自分に出来ることは、これですから。」

と、チーム全員の洗濯を始めた。

日本の代表チームの中心選手が、

ケガをしているとは言え、洗濯係をかってでたのだ。

先輩が、後輩も含めて全員の汚れ物を洗っているのだ!

そんな姿が、チームに与えた影響は大きい。



大会直前に、一人の6年生がやめた。

3人しかいないうちの一人だ。

その少し前にも、5年生だが、レギュラー級の選手がやめた。

やめた理由は、といえば、

バスケットをやりたくなった、とか、

ドッジボールをやりたくなった、とか、

自分の都合だけだ。

チームのみんなに与える迷惑、というものを、

全く考えていない。


サッカーは、今さら言うまでもなく、

チームスポーツだ。

陸上や水泳、剣道のような個人的なスポーツならば、

突然やめても、チームに与える迷惑は、

さほど大きくないかも知れないが、

サッカーは、そうではない。

自分がやめたら、チームのみんなは困るだろうな、

とは考えなかったのか、

考えたが、自分の都合を優先したのか。


3年前にも同じようなことがあった。

6年生が多く、しかも、皆上手だった。

かなり強いチームと試合をしても、勝った。

5年生は3人しかいなかったが、

6年生の仲間に入れてもらい、

そこそこ良い思いもした。


6年生卒業。

3人の5年生が、4年生、3年生と一緒に試合をすることになる。

力不足は否めない。

連戦連敗が予想された。

そんな折り、一人の5年生がやめて、他のチームに移る、と言う。

理由を聞いても言わない。

しつこく聞くと、理由にも何にもならない理由を言う。

ムスタングでは勝てないので、

他のチームに移る、ということが、

誰の目にも明らかだった。


チームの仲間のことなど考えず、

自分の都合を最優先する子ども。

しかし、私は、そういう子を責めない。

そういう子を育てた親も責めない。

いい歳をして、しかも

40年以上も子ども達にサッカーを教えてきたくせに、

そんな大切なことも指導できない自分を責める。

何をやっているんだ、馬鹿者!



「フォア・ザ・チーム スピリット」

を身につけさせるためには、

楽しい練習だけでは駄目だ。

遠足や合宿に連れて行っても駄目だ。

親子サッカーをやっても、駄目だ。

それらのことと並行して、いろいろな機会に、

「チームのことを考える」という話をしていかなければ、

理解も体現も出来ない。


PKを与えたTは、今は、

チームを引っ張っていける選手、

ではないかも知れないが、

「フォア・ザ・チーム スピリット」

を一番分かっている選手なのかも知れない。

あの涙が、そう語っている。

サッカーの技術・戦術よりも大切なものを、

Tは、身につけている。

そう思ったら、大会名通り、

「さわやか」になった。




昔から、「子どもは風の子、おとなは火の子」と言われてきたが、

死語になったなあ、と思っていた。

何をするにも、「めんどくさい。」「疲れた。」「やりたくない。」を連発する子ども達を見ていて、

内心、苦々しく思っていた。


昨日は、特に寒かった。

身を切るような寒さ、とはこのようなことを言うのだろうなあ、

という寒さ。

そんな中、ムスタングの子ども達は、休まない。

昨日休んだ子は、ケガの子2人だけだ。

家にいれば、暖かいこたつに入って、TVゲームを出来るのに、

わざわざ寒い中を歩いたり自転車に乗ったりして、

練習にやってくる。

これは凄いことだ。


体育館に入ったら、玄関で泣いている子がいた。

転んで、ももを強く打ったのだという。

練習中も泣いている子がいた。

足がひっかかって、転んで手を痛めた。

毎回、一人ぐらいは泣く子がいる。

転んで痛い思いをする。

そんなつらいことがあるのに、

練習にやってくる。

本当に凄いことだ。


家にいれば、全くと言っていいほど、そのようなことはないのだ。


練習が終わって外に出ると、

お母さん方がたくさんお迎えに来ていた。

「ははあ、これだな。」と思った。

子どもがつらいことに立ち向かっていけるのは、

「自分が愛されている、大切にされている。」

と思った時だ。

それがない子は、全てのことに消極的になる。

自分に自信が持てないのだ。

「やろう!」という気になれないのだ。

自分を成立させているだけで精一杯になってしまうのだ。

「セルフエスティーム」と言う。


つくづく、ムスタングの子ども達は幸せだなあ、と思った。

「子どもは風の子」が死語になっている原因は、

単に「コンピューターゲームが普及した」

ということだけではないのだ。

近頃紙面をにぎわす、親による虐待、育児放棄、子殺しに象徴される子どもの不幸もまた、

その原因になっているのだと思った。


お昼を食べようと、大衆食堂に行った。
1時を過ぎてはいたが、入口には5,6人の人が待っていた。
なかなか人気のある食堂である。
私達が待っている間にも、待つ人の列は伸びていった。

小さなテーブルに一人ずつ向かい合わせで座る。
大衆食堂だから仕方がない。
荷物は、背中の後ろとか足下に置くことになる。
大衆食堂だから仕方がない。

ふと隣を見ると、若い女性がふたりで向かい合って話している。
隣の席は、というと、イスの背もたれには、上着が掛かっており、
テーブルの上には携帯電話が置いてある。
小さなテーブルが二つ、少し離しておいてある。
4人でも座れるようにはなっているが、
ファミレスのような4人がけではない。
満席の店内で、そこだけが空いており、異様に目立つ。
「ははあ、トイレにでも行っているのかな。」
と思った。
テーブルの上には何もない。
もう食べ終わったと思われる。

混んでいたので、私達の食事もなかなか運ばれてこない。
ひとしきり待ったあと、やっと運ばれてきた。
値段の割りには、おいしい、熱々の食事。
猫舌の私達が、どうにか食べ終わった頃、
お隣の女性ふたりが立ち上がった。
隣の席にかけてあった上着を着、
隣のテーブルに置いてあった携帯電話を取り、
当たり前のように出ていった。
連れがいたわけではなかったのである。

1時過ぎとは言え、食事時。
お店の中は満席状態。
外には待っている人が多数いる。
そのような時に、かなり長い時間、平気で2人分占領する了見、感覚。


そういえば、前にも似たことがあった。
通学時間帯のバス車内。
立っている人が何人もいる。
ある小学生が、ランドセルを隣の席に置き、
自分は悠々と座っていた。
バスに乗ってきた初老の紳士が、
座ろうとしてランドセルに気づき、やめた。

私はその子に近づき、
「立っている人がいない時はいいけど、
こうやって立っている人がいる時は、
ランドセルは、自分の膝に乗せようね。」
と言った。
その子は、驚いたような顔をしたが、
しぶしぶランドセルを自分の膝に乗せた。

その後、何度かそういうことがあった。
その子だけではない。
同じ制服を着ていたので、
皆同じ私立の小学校だったのだろうが、
そういう子が何人もいた。
同じ注意を同じ子に何回もした。
直らない。

大衆食堂の女性も、ランドセルの子も、
「自分さえ良ければ、他人はどうでも良い」
という自己中心的な考え方なのか、
「自分のことばかり気がついて、周りのことには全く気がつかない」
という狭視的な性格なのか、
どちらかわからないが、
日本はひどい国になったものだと思った。
親の顔が見たい、と思った。


だが待てよ。
自分の娘はどうだろうか。
まさか、大衆食堂の女性のようなことは、していないだろうな。
ランドセルの小学生のようなことは、していないだろうな。
洗面所に行って、しげしげと我が顔を見た。