自宅分娩から施設分娩へ

大正から昭和へと時代が変化する間に分娩の安全性を変化させる重要な出来事がありました。昭和25年(1950年)までの分娩はほとんどが自宅分娩でしたが、この年を前後にして、分娩の多くは自宅分娩から医療施設分娩になりました。

 

このころを境に、医療設備のほとんどない自宅での分娩行為が、設備の整った施設での分娩になり、産科治療に医療技術と医療スタッフ(マンパワー)の介入が可能になったのです。

 

新生児医療が始まる

医療が整った病院施設での分娩は、産科医の分娩介入と同時に問題を抱えた新生児への小児科医の早期参入も可能にしました。

この結果、小児科医は早期に問題のある新生児の治療を開始し、それまで生存不可能であった早産児や低体重児の生存率を飛躍的に改善しました。

 

1950年には妊娠28週前後の新生児の生存が可能になり、1980年になると妊娠22週の新生児の母体外生存も可能になりました。新生児の治療技術の著しい進歩や発達は現在もその生存可能週数を短縮しています。

 

経験と勘にたよる産婦人科医療

私たち産科医の妊娠・産科医療は本来「経験と勘」に頼ったものでした。

子宮内で発育する胎児は母体の腹壁や子宮壁、卵膜、羊水によって囲まれて存在します。また、分娩時に通過する産道は骨盤内に深く収められ、視診が不可能なため、胎児の評価や分娩の進行は、産科医療従事者の手指による外診や内診に頼らざるをえません。

 

従って、現在使用されている多くの産科機器の存在なしでは、本来の妊娠・産科診療は主観的なもので、特に初期の産科医療は月経歴、妊婦の妊娠自覚、熟練した内診技術に保障される、極めて主観的、経験的なものなのです。

 

 

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