フランスでは、民主主義の主体である人々の行為による民主主義の実現・支配が目指されています。
槍玉にあがっているのはブルジョア支配の「象徴」としての大統領マクロン。選挙で選ばれてんだから民主主義って?・・・21世紀の選挙の実効性については、それが「民意の反映」というドグマを利用した支配の確立方法ではないか、メディア・教育の協力体制との関連など十分に吟味・検証すべきでしょう(とっくの昔にマルクスやレーニンはその欺瞞を指摘してますが)。
換骨奪胎された外形的民主主義としての代議制民主主義を、あえて「私たちの」民主主義の手段として再利用することは必要と思いますが、より直接的な民意の反映として主権者自身によるデモやゼネラルストライキなどを否定する理由はありません、それこそ民主主義の死です。
フランスのイエローベストの人々に心から連帯します。燃料税を値上げして電気自動車へ誘導などという大資本の思惑に迎合するようなブルジョア政府にノン!を突きつける闘いこそ民主主義の最たるものでしょう。さすがパリコミューン の歴史を持つ人々です。
さて、私たちは、この地で何をすべきか。私たちも支配の体制とその「象徴」を退陣させ、私たちの支配、つまり民主主義の実質的な実現を目指しましょう。
「パンとサーカス」としてのオリンピックや万博で我々を懐柔し、反民主主義の矛盾制度=天皇制をプロパガンダに利用するために存続・継承させ、戦争できる国づくりのための憲法改正を実現しようとしているのが安倍首相を支配の「象徴」とする今の日本の支配層。
フランスのゼネスト的な民主主義を予防的につぶすために、あえて「天皇代替わり」を労働者の闘いの象徴であるメーデー(2019年5月1日)にぶつけてくるという挑戦的かつ追い詰められた対応です。
「10連休」というフランスのバカンス作戦のように人々の都市部への結集を拡散する方法まで取って、私たちの民主主義的連帯を根こそぎにしようと目論んでいるのでしょうか。
舐められているというか、侮辱されているというか。
「いい人だ」とか「バカだ、アホだ」みたいな属人的な対象への評価の問題ではなく(実際わからないし)、支配のイニシアティブは、私たちが本当に握っているか、私たちがしたい方向に歴史と生活が進んでいるか、という観点から考えるべきでしょう。
朝っぱらから「陛下、陛下」って私たちは、どんな時代に生きているんだ?と思います。
「憲法は少なくとも政治システムを樹立するものであり、政治システムの存立を否定する規律へと変更することは如何に改正手続を遵守したとしてもできない、のは当然であろう。この場合政治システムとは諸個人一人一人の自由を保障する装置のことである。つまり自由な体制のことである。」(『憲法9条へのカタバシス』木庭顕)
自由な体制こそ、「私たちの」政治システムなら、私たちが支配・実現しなければならないですよね。
戦後支配のために利用できる玉(ぎょく)として残された天皇制。再び利用されようとしています。その放置・受容が、民主主義の怠惰の象徴にならないよう自戒し、2019年の行動を民主主義的=主体的に選択しましょう。