在日コリアンへのネット脅迫 「表現の自由」の責任 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 報道によると16年8月と昨年4~5月、「チョーセンはしね」と投稿したり、「レイシストが刃物を買うから通報するように」とツイートしたりした男性が川崎市でヘイトスピーチへの反対運動を続けている在日コリアンの崔江以子(チェ・カンイジャ)さんに対する脅迫容疑で書類送検されたとのこと(5/24朝日、毎日、弁護士ドットコムnews)

 

 早速、友人である金竜介弁護士から「森川さんは、ヘイトスピーチへの対処としてどう思いますか?」というメールが。つまり、この具体的なヘイトスピーチとして攻撃に警察を使っての対処(告訴)は表現の自由の国家権力への侵害を招くものであり消極的であるべきだ、と思いますか?ということだと思います。

 

 私は、憲法の表現の自由(21条)とか、思想良心の自由(20条)を、ただただ金科玉条のように形式的に掲げて侵害されている、なんて主張されてもなあ・・・と思うことの方が、むしろ、よくあります。

 

 表現の自由、これは民主主義社会においては極めて優先的で重要な価値がある、なんてことは憲法の教科書には書いてあります。多様な価値観の交換・流通こそ民主主義の基礎、みたいな。だからどんな表現でも基本守らなくてはならない、というような。

 

 ・・・やれやれ。実際、そういう抽象論には意味がありません。実際に弾圧されたことはあるかい?、ただ学生に講演に呼ばれただけで「学外者の森川文人は直ちに退去するよう勧告する!! 富山大学」というプラカードで追い出されたことはあるかい?と尋ねたくなります。

 

 私は様々な経験を通じて、真に何らかの意味のあること(あるはず、でもいいですが)を具体的に表現しようとすれば、弾圧される危険は常にあり、むしろ、その可能性もないような表現や思想はさして時代にとって重要ではないのでは、とすら思うようになりました。安全な表現は、つまりは無害で無意味な思想の現れにすぎないのではないか、ということです。言い過ぎですかね?

 

 表現行為は、著作権侵害、名誉毀損、詐欺、恐喝、脅迫、威力業務妨害などの違法行為として取り締まられ犯罪とされたり、損害賠償義務が発生することがあります。いわば、法による表現の自由の制約があり、国家権力がこれらにかこつけて弾圧されることはあります。それは今も昔も変わりません。

 

 だから、何かを世の中に訴えたいなら覚悟と責任を持つのは当たり前でしょう。

 

 

 今回、崔江以子(チェ・カンイジャ)さんが自分に対する脅迫だとして告訴に踏切り、警察を動かしたのは、そんな容易いことではなかったと思います。警察は私人の告訴を簡単に受理しませんし、積極的に動こうともしません。

 当事者や告訴代理人らの努力が書類送検にまで持ち込んだのだと思います。

 

 それに対し「尊皇愛國。皇室/神道/国旗/国歌 川崎市川崎区出身。川崎と鹿児島のハーフ。生涯一ヘイトマン。ヘイトスピーチ、レイシズム、だから何? いやー朝鮮学校生徒の集団犯罪が「青春群像」とは、まったく世の中は変わったなぁww  (・∀・)」とまでは自己表出していた被疑者は「表現の自由」の行使者としてどんな覚悟があったのでしょう?

 

 具体的な差別の被害者が必死の想いで選んだ告訴という手段に対し、情状弁護ではなく自己の「表現の自由」を賭けた闘いがなされるのでしょうか。匿名で「レイシストが刃物を買うから通報するように」とツイートすることにどんな社会的な意義と思想があるのか。やれるものなら堂々と闘ってみろ、と思います。

 

 

 さて金弁護士の問いの「心」は、ヘイトスピーチ法案の頃、「他の手段でヘイトスピーチと闘うべきだという人は本当にそれを実践してきたのか、するのか」という点にあります。森川さんはどうか、と。

 

 私は、この問いを忘れたつもりはなく、昨年7月の川崎のヘイトデモには木村元彦さんの誘いもあってデモのカウンター側に参加しました。まあ、それだけ、です。

 

 表現の自由・・・。具体的に・実践的に・関わらなければ意味ありません。「物言えば唇寒し秋の風」ですが、「沈黙の罪」(バートランドラッセル)ということもあります。鋭く勇気が試される問題だと思います。