この間、本屋に平積みになっている本が、だいたい同じことを指摘し、危機感を主張しています。
一つは、「計算機」としてのAIはどんどん発達し、既存の仕事を奪うだろうけど、AIは「意味」はわからない。だけど、今の子どもたちも同じくらい「意味」を読み取れない、という指摘。かなり調査も行った数学者の著書で、筆致も軽やかで、かつ内容ディープな本だと思います。
中高校生の読解力があまりに低い実態を訴えている理由は、この子たちが中学校を卒業するまでに、なんとしてでも教科書が読めるようにしないと、少子化に突き進んでいるのに移民は頑なに受け入れたくないという日本は、とんでもないことになるからです。日本は欧米に羨まれる画期的に低い失業率を達成しています。それを維持するには、最低限、作業マニュアルや安全マニュアルを読んで、その内容を理解する必要があります。そのためには、教科書が読める読解力が是非とも必要なのです。(『AIvs教科書を読めない子どもたち』新井紀子)
で、私としては、そうなのかもな、と思ったのですが、必ずしも「子どもたち」の話ではないのでは、と。というのは、同世代と話しても、私自身がイマドキの言葉でいうと「痛く」て「エモい」、そして「意識高い系」みたいに煙たがれることもあり、逆に私としては、もっと「中身」の、表層ではない「意味」自体の話をしたいな、ということがしばしばあるから、です。
すると、このことを「資本主義」の問題として普遍的に指摘している本がありました、これも紀伊国屋では平積み。
書くということは決して資本主義の得意分野ではない。資本主義はどこまでも文盲的である。」と、ドウルーズ・ガタリは『アンチ・オイディプス』のなかで述べている。「電子言語の仕組みは、音声や書記と異なる。データ処理はそのどちらも介さないのだ。」成功したビジネスマンの多くが失語症であるゆえんだ。(『資本主義のリアリズム』マーク・フィッシャー)
つまり、今はたくさんのいわゆるビッグデータを解析することは進んでいるけど、その「意味」を「考える」、新井紀子さんがいうところの「AIにできない仕事ができる人間がいない」、そういう教育(というか奴隷的な飼育?)が進んでいる、だから「文字(テキスト)」の「意味」「中身」を理解しないし、しなくても済む程度の表層的な生活で飼いならされている、これはヤバイのでは?という指摘だと思います。
もっと意味を! もっと中身を! もっと思考を! もっと会話を! 人と生きるで人生。上っ面で表層的な、どこまでいっても挨拶みたいなやりとりは人生の無駄。中身の話をしましょう。