この間、民事訴訟の手続きとしての証拠保全(民訴法234条)の手続きを申し立て、裁判所の「決定」を2回、続けざまに得ました。一つは、警視庁に対する国家賠償事件で、もう一つは労働事件です。
この「証拠保全」とは、何らかの情報=証拠があることはだいたいわかっているけど、それが自分の手元にはない、むしろ相手方(会社、病院等)が持っている、それを知りたい、利用したい場合に利用する手続きです。
「フェア」で「対等」な関係であれば、「情報をオープンにして欲しい」と申し入れれば、任意に提出される・・・はずですが、まあ、そういうことはない場合に裁判所に申し立て条件を満たせば「決定」ということになります。
条件とは「あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情があると認めるとき」(民訴法234条)です。つまり、今やっておかないと、その証拠が隠蔽されたり、捨てられたり、改竄されてしまって、あとで使用できなくなるかもしれないと裁判所が判断したときに「決定」します。
この裁判所の判断を得られなければ、証拠保全は出来ません。そのために弁護士は努力します。
・・・さて、隠蔽、廃棄、改ざんの虞れ、です。最近、よく聞く言葉だと思います。もっとも「虞れ」ではなく、実際に、あるものをない、と言って「隠蔽」し、もしくは本当に焼却したり、さらには「改ざん」したり・・・これは、ある意味、戦中から綿々と続く国家のお家芸、といえるかもしれません。
まあ、国家権力だけでなく、報道機関とか大きな組織は、「握りつぶし」というワザも使うのでしょうか・・・。
特定秘密保護法だとか、「国家機密」だとか、権力側は、やたら防御的に、自分に都合よくことを運ぼうとしてきていますが、ほころびが甚だしい。
しかし、「悪さ」を隠し、「共謀」し、「忖度」し、都合の悪い事実を「握りつぶ」そうとするもの。まあ、だいたいこれが現実でしょう。
ということでは、民主主義=私たちの主体的な政治、というのであれば、私たちが国家権力を監視し、情報を何もかも把握し、奴らをガラス張りのケースに入れておく必要があるでしょう、民主主義というならば。
その意味では、私たち側の覚悟と責任、つまり、情報を全て把握してしまった上での判断する責任が必要だとは思いますが、成熟した民主主義社会の主体とは、それを引き受けるオトナの世界だと思います。