細川嘉六氏は、横浜事件の「中心人物」です。1942年7月6日、富山県泊の旅館「紋左」で、共産党再建会議が開かれたということで、当時のメディア関係者が治安維持法違反で逮捕され、拷問され、虚偽の自白を強要されました。
実際は、細川氏の出版記念の宴会旅行・・・だったのであるが、当時のメディア関係の最先端の若者が反体制思想の共産主義や社会主義に影響を受けていたのは当然のことでした。
そして、細川嘉六氏自身、共産主義の研究者であり共鳴者であり、当時、「共産党」に入党はしていないもののマルクス主義者であることは明らかです。
第7回被疑者尋問調書 1943年1月28日
3問 このレーニン著『何をなすべきか』と題する書籍は如何なる内容のものか。
答 この書はレーニンが共産主義運動の組織活動に就いて述べた有名な文書であります。私は之を購入後その最初の40頁ばかりを読んだだけでありますが。その中では職業革命家団やサークル活動の必要等が述べられております。
4問 すると被疑者は1902年頃レーニンが活動した時期の方針を学び、何かの活動を展開するために読んだのか。
答 特に意識的な計画は当時持ちませんで、只有名な文献であるから読みたいと思ったに過ぎません。
5問 当時既に被疑者は、エンゲルス原著『反デューリング論』を読んで居るが何のためであったか。
答 前述の様にマルクシズム哲学をはっきり認識したいためでありました。
(『細川嘉六獄中調書』森川金壽)
細川氏に対しても拷問は行われたようですが、細川氏だけは「木村くん!当局のこの度のわれわれに対する拘禁はまったく不法拘禁で許せない。総理大臣か司法(法務)大臣がこの刑務所へやってきて、われわれの前に両手をついて『悪うございました』と謝らない限り、断じてここは出てやらぬ肚を決めたまえ」と木村亨さんに伝え、敗戦後、急遽、責任逃れのために、そそくさと判決を下し、訴訟記録を燃やしてしまいたい裁判所の要請に抗して、弁護人の海野晋吉弁護士に「自分だけは徹底的に争いたい」と伝え、結局、治安維持法廃止まで法廷闘争で闘い、当時、「免訴判決」となった、ということです。
のちに、1947年共産党公認で選挙に出て当選、しかし、占領政策に反したとレッドパージにあうなど闘い続けていた人です。『マルクスエンゲルス全集』(大月書店)の監訳者の一人です。
こんな細川嘉六氏にとっての「横浜事件」、というか治安維持法違反、とはどのような意味を持つのでしょうか。
思想弾圧はいけない・・・と言う人のどれくらいが、弾圧されるかもしれない思想を持っているのだろう?・・・と私は思います。横浜事件=治安維持法違反事件の本質は、冤罪だとか、デッチ上げである、とかよりも、「思想弾圧」であったことが重要だと思っています。
何故なら、今も人々の中に、共産主義に対する偏見や、国家による暴力独占を前提とする考え方、などが当時の政府の洗脳政策の影響で残っているからです。
細川氏にしても、木村亨さんにしても、そして私の父森川金壽にしても、共産主義・社会主義・無産主義の文献を読みまくり、影響を受けていました。今の時代の整理でいう「リベラル」なんてはるかに凌駕する幅の広い思想領域から自分の生き方を選んでいこうとしていた人たちだったと思います。
21世紀の今でも思想弾圧はあります。昨年の全学連大会を公安刑事らが暴力的に襲撃したり、福島現地ツアーを白タク容疑で逮捕・勾留したり、枚挙にいとまがありません。
もちろん、どの時代にあっても、そのような弾圧は、既に人々に浸透している共産主義を「アカ」というような偏見を背景に行われるので、それが「思想弾圧」だった、という評価を持つのは、後日、「歴史的に」ということになるのかもしれません。
しかし、これからその「歴史」が始まるとしたら・・・。これほど、行き詰まった時代、世界各地で、爆発的な人々の怒りの動きが始まっています。時代は変わり、システムは変わるのは当然・・・この発想は、横浜事件の時代も今も変わりません。
第4回被疑者尋問調書 1942年12月17日
4問 被疑者が共産主義に共鳴し、之を信奉するに至った理由は如何。
答 日本は明治維新以来、資本主義的に発展して来たのですが、労働者農民の状態は悲惨であり不安定の現状にあります。之は世界的に資本主義国家の共通の通弊であり、つまり資本主義がもやは斯かる矛盾を解決し得ざる事態に立ち至ったのであります。