ストライキとは何か。つまり、働かないで抗議をすることです。史上最初のストライキは、ファラオの墓を作る労働者だとか。
ストライキとは、賃金奴隷にされそうな労働者が、自分たちの「力」を誇示し、工場を、会社を、そして社会を動かしているのは99%側の労働者民衆であることを示すところに意義があります。
「会社あっての労働者」とは、真逆の発想、つまり、「労働者がいなければ社会は回らない、社長がいなくて社会は動かせるんだ」という、極めて当たり前のことを示すことができます。会社に対し、権力に対し、さらには自分たちで互いに自覚することができるでしょう。
世界では、21世紀の今、各地でゼネスト(ゼネラル・ストライキ)が行われています。
韓国、フランス、ブラジル、ヴェネズェラ等々・・・。「格差と貧困」が拡大するなか、「ふざけんなよ!もうやってらんないぜ」「いつまでも黙っていうこときいていると思うなよ!」という意思と怒りが、その根底にあるでしょう。
私たちをとりまく日本の状況も「やってらんないぜ!」的状況ではないでしょうか。政府は自分たちのスキャンダルをごまかしながら、弾圧立法としての「共謀罪」を強引に成立させ、さらには資本にとっての生き残り手段としての戦争を行うことが可能な国家作りのために「改憲」をなんとしても進めようと必死です。
どうしたらいいのでしょ? 選挙で変えられる、かな? 小選挙区制やマスメディアを利用したプロパガンダ、日々の生活に追われ、イメージやムードに誘導される「有権者」としての私たち・・・。
ストライキをやってみたいと思いませんか。何かと「自己責任」と「達成感」のような隣の他者とは競争させられこそすれ、団結する仲間になることを許さない今。共謀罪とは、まさに隣の仲間と繋がること、そのことを恐れての権力が必死に求めた「武器」でしょう。
ストライキをやってみたいです。「辛いのは俺だけじゃない」「私たちが競争に追い込まれているのは間違っている」「儲けることだけが全てではない」という気持ちをもって、私たちが私たち自身の力を自覚し、私たちとして社会のイニシアチブを握る、握れることを示すのがストライキです。
思えば、ストライキを避けることに19世紀、20世紀の資本は必死だったと思います。ストライキは一人では十分ではありません、仲間と一緒に行ってこそ大きな力を持ちます。だからこそ、私たちに、正規・非正規の分断、日本人労働者・外国人労働者の差別、その他あらゆる分断を持ち込んで、私たちが団結し、ストライキを行わないようにしているのです。
だからこそ、ストライキをやりたい。弁護士としてのストライキ、市民としてのストライキ、なんでもいいけど、自分(たち)の力を実感し、それを発現する「責任」を快く引き受けるストライキを。
先日、大学時代の友人に会い、卒業時に学費値上げのストライキをしたことを思い出しました。バブル期へ向かう80年代半ばの大学で、です。
多くの人が、ストライキの経験・記憶すらない今。だからこそ、「新しい民主主義としてのストライキ」。私たちが、私たちの世界を実現するために、この21世紀の今の日本だからこそ、ストライキを、そしてゼネストを実現したいと思います!