「真実を話す」べきなのは、どちらか? | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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「内乱というのは国家の基本組織を破壊すること、つまり革命を意味する。刑法は『朝憲の紊乱することを目的として暴動をなしたる』行為という言葉をもって表示している。単に暴動があるだけでは内乱罪ではない。
 朝憲紊乱の目的のあることが要件となっている。行為の違法性が行為者の心理状態に関係する場合—主観的違法要素を必要とする場合—の一例である。内乱の目標は現実の国家組織の破壊である。したがって、これは現実の国家にとって最も恐るべきものであり、極力これを弾圧する必要がある。しかし、行為者の動機は必ずしも濱斥すべきものではない。かえって彼らは人類のより幸福な社会の建設を目標として現実の社会の破壊を企てるものであって、結果からいっても、もし、内乱が成功すれば、行為者の支配者の地位にとって替るわけである。『幸福の革命家の道は、タルペーヤの岩を超えてカピトールに通ずる』という言葉どおりである。大きな目から見れば、彼らの動機・行動が悪いから罰せられるのではなく、ただ破れたから罰せられるだけの話である。」とは、あの滝川幸辰教授の『刑法読本』の記載です。

 

 最後の「大きな目から見れば、彼らの動機・行動が悪いから罰せられるのではなく、ただ破れたから罰せられるだけの話である。」というところがいい。それ故か発禁処分になりました。

 

「『真実を話してほしい』。暴徒化した過激派の学生らが起こした「渋谷暴動事件」から46年。逃亡を続けていた中核派活動家、大坂正明容疑者(67)が殺人容疑などで逮捕された。事件で犠牲となった新潟県警の中村恒雄巡査(当時21歳)のかつての同僚らは真相解明を切望した。」

 「警視庁公安部によると、6日夕に逮捕の方針を伝えられた中村巡査の兄秀雄さんは「罪を償ってほしい。一日も早く本当のことを知りたい」と話していたという。」(毎日6/7)との記事など、今、毎日のように、46年前の事件についての逮捕がクローズアップされています。

 

 何故、今か?といえば、テロ等準備罪=共謀罪の「必要性」作り、つまり「日本にも「過激派」が潜伏しているんですよ〜、怖いですねえ」という状況を演出するためでしょうが、マスメディアの報道の仕方も、政府・警察のリークのまんま、なんらジャーナズムという視点を感じさせないものになってきています。

 

 記事をぱっと見ても、「え、真相解明されていないままの逮捕なの?」とか、「46年前も前の事件なのに証拠はちゃんとあるの?」とか、「中核派活動家ってウラはとってるの?」なんていう権力側に対する懐疑的なスタンス、批判的な視点が全く欠けています。マスメディアも「共謀罪」キャンペーンの一環に組しているということでしょうか。まあ、そうだなあ。

 

 何よりも、このタイミングでなされた国家暴力=逮捕が、本当に・根拠をもって・なされたものなのか、「過激派」キャンペーンを利用した「勝てば官軍」的な強行なのか、というクールな見方はマスメディア上は皆無です。

 

 渋谷暴動とは1974年11月10日、「基地の島」としての固定化をもたらす「沖縄返還協定批准」に反対して沖縄でのゼネストに呼応して行われた民衆の闘争とされています。当時の多くの若い学生や労働者が参加した民衆蜂起的な闘争です。

 

 歴史上、そして今日も世界中(パリやブラジルやベネズエラ等)でなされているような、革命的・内乱的萌芽を持った民衆「暴動」です。

 

 国家権力に真正面から逆らった闘争だったことは明らかでしょう。滝川教授のいうところの「現実の国家にとって最も恐るべきものであり、極力これを弾圧する必要がある」行為でしょう。

 

 しかし、だからといって、その国家暴力の行使=逮捕、勾留、裁判等にあたり、デュープロセス(適正な手続き)が欠けていいことにはならないし、また、私たちがそれを許してはならないでしょう。ムードや雰囲気や、ましては権力の情報リークに流されないようにしましょう。

 

 なにかと物言えば唇寒し、の時代。朝鮮半島での戦争にも、天皇制の存続にも、声があげにくい空気が作られています。共謀罪法が成立してしまったらますますその傾向が増すでしょう。一方で、政府側のモリやカケの対応はザルでデタラメ。まさに、「真実を話してほしい」ですよね、黙秘するなよ!黙秘権は俺たちの権利だよ、と言いたくなります。

 

 「それ、なんかおかしいんじゃないの?」という感覚を声にしましょう。そして、それを共有(シェア)しましょう。それを政府は「共謀」というでしょうが、私たちにとっては「団結」であり「連帯」なのだから。