桜の下で平和を共に願う・・・と共謀罪? 思想の自由の今 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 建前としては、あらゆる思想が自由とされています、憲法(19条)といわなくても、いわば、この資本主義体制の「常識」としても。

 

 現実には、資本主義という「選択」が憲法上もなされ(憲法29条)、なんだかんだ言って資本主義のオルタナティブとしての思想、発想、アイデア、イデオロギー、試み、などに対しては、嫌悪と弾圧で向かうというのが、現在も「常識」でしょう。私たち自身の中にも染み込んでいると思います、教育、メディア等を通じて。

 

 そもそも、治安維持法も「共産主義」思想弾圧のための法律ですからね、そもそもは。

 

 よくある評論としては、当初は共産主義者だけの弾圧だったのに、だんだんとヒューマニストや今でいうリベラリストにまで弾圧が拡がった、そういう濫用が治安維持法の危険性だ、というようなものがあります。

 

 実際、横浜事件においては泊温泉での宴会が「共産党再建会議」としてでっち上げられています。とんでもない話です。

 

 

 ただ、私としては、今考えるべきは、やはり思想の自由、ではないか、ということです。

 

 本当に「共産党再建会議」だったら弾圧されてもしかたなかったのでしょうか?

 当時の「共産主義」「社会主義」「無政府主義」などの思想が弾圧されることは仕方なく、それが、一般的なリベラルな思想にまで及んだことが問題、ということなのでしょうか。

 

 もし、そうだとすると思想の自由の範囲は極めて限定された資本主義体制思想の範囲の自由ということになると思います。

 

 ・・・これくらいの話で「過激派」扱いなのだとしたら、その世界には「思想の自由」はすでにない、ということでしょう。その時代の支配的な思想は、支配者の思想である(『ドイツ・イデオロギー』)という指摘の通り、私たちの今の「常識」はもちろん、時代の支配者に都合のいい「常識」としてコントロールされている、ということだと思います。

 

 という意味では、本質的に「思想の自由」とは、「常識」にとらわれない、その時代にとっては「危険」で「過激な」発想である、それが思想の自由の本質的性格ということでしょう。

 

 しかし、そのような思想は別に特別なものではなく、私たちの中から生まれる想いを源泉にするものであるし、時代の矛盾から生まれる「一般人」の生活からリアルに立ち上がるものだと思います。

 

 「やってらんないぜ!」という思想こそが、体制転覆の発想だし、生き抜くための思想に繋がると思います。そして、そういう思想・発想を事前に潰すことが、治安維持法や、今般の共謀罪の支配者側の狙いでしょう。

 

 そういう「危険思想」が拡がる恐れを、心底怯えているからこその「共謀罪」策動だと思います。

 

 一般の人、と言ってしまえば市井の人は、どんな思想を持っていようが一般の人でしょう。

 「一般の人にまで及ぶ危険がある」共謀罪弾圧、ではなく、そもそもが「一般の人の思想の自由」を狙い撃ちするのが共謀罪だということを、この朝鮮戦争反対すら容易に言いにくい空気が急激に広がっている今、あらためて確認したいと思います。PEACE