ナショナリズムの時代を超えて | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 安倍首相は、ハワイを訪れ、謝罪なしに「希望の同盟」を強調(12/27)、その直後、稲田防衛相は靖国神社を参拝(12/29)。

 これに先立ち、日ロ首脳会談では、堂々遅刻のプーチン大統領に北方領土問題につき「ロシアに領土問題は存在しない」と強硬姿勢を「領土返還」を拒否された安倍首相(12/16)。

 

 私たちは、このような事態をどう捉えるべきか?「ちゃんとアメリカに謝罪しろ」、「アメリカこそ、広島来て謝罪もしてないぞ」、「ロシアに対しだらしないぞ」。「日本の領土をとりかえせ」とか?

 

 ・・・なんていう国家=私たち的な発想が拡がりつつ、いや拡がらせようとされていることを感じます。

 

 いや、「アジアを含む国際社会と真の意味での『和解』をめざすなら、稲田氏の参拝を放置してはならない」(朝日12/30社説)とか、「せっかく積み上げてきた中国、韓国との防衛交流が止まってしまう。」(防衛相経験者 朝日12/30)なんて、一見もっともらしいコメントも同じく、ナショナリズムの蔓延を強く感じさせます。

 

 

 日本政府=安倍政権が、この激動の世界情勢で政府=資本の延命を賭けて目指しているのは、国内での格差拡大、非正規化、貧困層の拡大から高まる私たち民衆の不満をナショナリズムで「回収」するためでしょう。

 謝罪なきハワイ訪問も靖国参拝も、そして日ロ首脳会談も「アメリカと対抗し、従属ではなく対等に覇権国家として屹立する強いニッポン」を演出し、この内政的な危機を突破するために対米対抗性を打ち出し、ロシアともギリギリの外交的綱渡りを試みたと見るべきでしょう。

 

 私たちは、政府とメディアが振りまく「日本vsアメリカ」「日本vsロシア」というナショナルな構図に引きづられることなく、「軍事的、つまり戦争により突破しようとする自国vs動員される私たち」という階級的な対立軸を見失わないようにしなければならないと、強く思います。

 

 せっかく積み上げた「中国、韓国との『防衛』交流」とは、中国との東シナ海での「偶発的」な衝突を回避する「海空連絡メカニズム」であり、北朝鮮のミサイル発射に備える「日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)」のことであり、いずれも戦争のための軍事的な同盟締結戦略のことにすぎません。

 

 よく、こんな欺瞞的なコメントを靖国参拝批判として、サラッと掲載するなあ。この発想の中に、すでにメディアの中に「北朝鮮」に対する排外主義的な偏見がはびこり、日韓が北朝鮮に沖縄の米軍と共に「安全保障」や「自衛」の名を借りて戦争をしかけること(その時、決して「戦争」という名前で発表しないでしょうが)に対する「戦争反対!」の声をあげられないほどに排外主義的ナショナリズムが育ちつつあることを実感します。

 

 私は、国家が「謝罪」するということの意味は、それが政府・資本レベルでの経済的・覇権的な外交にとって「得策か否か」だけで決まるパーフォーマンスであり、個人が個人に対して行う「謝罪」とは本質的に違うものと思っています。

 

 つまり、そんなものを国家=首相のパーフォーマンスとして求める心性は私の中にはないし、それは私にとってはナショナリズムからの自由であると理解しています。国家=政府=安倍首相に、本物の謝罪など期待する意味がわかりません。

 

 政府=安倍政権を批判することは必要です、ただし、それは、階級的な視点を持った政府・資本の思惑として戦争にいたずらに動員されないことが肝要です。

 

 今、あらゆる方向から「祖国防衛」の誘惑がナショナリズムの罠により仕掛けられている、と危惧します。これに対抗するのは、やはり古くて新しい自国の政府打倒の「祖国敗北主義」だと思います。自国政府の戦争政策を止めさせる責任の遂行が強いて言えば「平和主義」でしょう。

 戦争しようとする政府を自国民として打倒する。2017年は、ナショナリズムの発想から抜け出し、私たちはどこに立っているのか今一度見定めることを共有したいと思います。