能力主義というか、自己責任というか・・・。ともかく、「自分は、ま、こんなもんである」という規定が、極めてマゾヒスティックというか、自己否定的に、私たちを横溢している、そんな世界に生きている気がします。
こう自分で書いていても、自分でもそう思います。「自分は大したことないし、自分が何か発信することにはほとんど意味がない」と。
一方では、それはその通りの部分もあるし、そうではないかもしれない。いったい、自分の「価値」とか「評価」とは、どういう基準で、どうやって決まるのか。誰が決めるのか。
『SAVING CAPITALISM』というロバート・B・ライシュの新刊は、まあ、タイトルからして資本主義の存続が前提なのですが、以下の記述は、自分の「価値」と労働組合など団結する力との関係の記述は興味深く読めます。
「数年前、私は、ある発電所で働く従業員向けに講演を頼まれた。当時この発電所で働く従業員たちは、労働組合を作るかどうか検討しているところだった。組合結成に反対票を投じようとしていた一人の若者が、自分は今もらっている14ドルの時給が妥当で、それ以上もらえるような仕事はしていないと言い出した。『何百万ドルも稼いでいる人たちは、本当に素晴らしいと言いたいです。自分も学校に通って、お金を稼げる頭脳があれば、そのぐらい稼げたのではないかと思うけど、自分は学校にも行けなかったし、頭も良くないので、肉体労働をやってるんです。』
この青年は、米国の民間部門の労働人口のうち3割以上が労働組合に加入していた1950年代を全く知らないのだろう。組合のおかげで、当時のブルーカラーと呼ばれる労働者たちは、現在価値に換算して時給30ドル相当(平均値)を要求する交渉力を持っていた。ブルーカラーの多くが高校すら卒業していない時代にである。彼らは、頭が良かったから時給30ドルを勝ち取ったのではない。彼の持つ交渉力がそうさせたのである。だがこの頃を境に、時給アップのための賃金交渉力は明らかに弱まっていった。
加えて、自分の給与は自分の『価値』に応じて決まるという考え方があまりにも深く人々の意識に刷り込まれてしまったため、稼ぎの少ない人の多くが、そうなったのは自分のせいだと思い込んでいる。そして、知識の不足や性格の悪さなど、自分で自分の欠点だと思い込んでいるものを恥じてもいる。同じ考え方は莫大な収入を得ている人々にもあり、彼らは自分はとても賢く、勇敢で、優秀であると思っている。そうでなければ、あれほど成功することはなかったはずだ。そのように強く確信することによって、巨万の富のみならず、自らの社会的ステータスをも正当化していると思われる。彼らは、自分たちのカネを、彼ら富裕層が市場のルールが自らに有利になるように強く働きかけたことによって得た「賞金」であるとは考えていない。おそらく、一般の人々にもそんなふうに思われたくないはずだ。P116」
「給料がその人の価値で決まるとの暗黙の了解は広く知れわたっている。だが、そんな了解はトートロジーであり、市場を定義づける法や政治の仕組みを見落としている。何より権力の存在を無視している。無視することによって、疑うことを知らない普通の人々を『労働市場が決めている以上、報酬を変えることはできないし、すべきではない』という思考へ誘い込んでいるのである。
この論理でいけば、現在、最低賃金で働く労働者は、その分だけの価値しかないので、最低賃金を引き上げるべきではないということである。 P124」
「根本的な問題は、平均的な労働者の労働市場における「価値」が昔ほどでなくなったとか、彼らが身の丈以上の暮らしをしているからということではない。そうではなくて、現代の労働者が、戦後30年にわたり獲得できた米国経済の利益の分け前を、当時のように要求するだけの交渉力を徐々に失ってしまったことが問題の本質である。彼らの所得水準は、交渉力があれば得られたであろう経済的利益の取り分に至っていないのだ。P173」
本の結論は、なんとも「修正」的で食い足りないのですが、この「価値」は給与で決まるのではない、力を合わせて勝ち取るものなのだ、という指摘は、その通りだと思います。
「やってらんないぜ!」「みんなで力合わせてなんとかしようぜ」ということですよね、労働法制の改悪も、ブラックバイトも。がんばりましょう!