今、世界はいびつなほどに「富」が偏在し、わずかな1%以下の人々に過剰な、あまりに過剰な「富」が集中し、その他の99%は、99%の中で上をみたり、下を見たり、右往左往させられています。もちろん私も。
「悲しいときは身一つ」・・・といいますが、99%で連帯しようと言ってみても、1%が握るメディアの影響力は99%に対してこそ圧倒的だし、そして、それぞれの絶望・不幸・課題は個別化・個性化・個人化され、つまり分断されていずれにせよ「個人的な問題」として、つまりは、「自己責任」の殻に閉じ込められます。
「僕がダメなのは僕がダメだから」「私個人の問題だから」「こんな目は自分だけの問題だろう」という自責と諦念の檻の中に・・・。だから、その「個人的な問題」「個人的な悩み」は共有がされないし、「99%、みんな同じさ、連帯して頑張ろう」という「一般論」的スローガンは、かえって虚しく響くか、もしくは、1%の利益のために誰が一番貢献できるかという競争に導かれるだけ・・・。
世界中、為替変動・戦争情勢・産業構造の変化で、各地域、各ポジション、各産業従事者、ある時は、「いい目を見た」気にさせられ、ある時には「バブルが弾け」、いずれにせよ、競争と駆け引きを余儀なくさせられています。ウィンウィン?誰と誰が?資本同士が? それとも、まさか、資本と労働者が?
4人に一人が自殺を真剣に考えたことがある、相談する人がいない、そういう時代のようです。相談する人がいない、というのは、職場で、そして、もしくは家庭で、「すぐ側に物理的に存在する人」には、相談する気にはなれない、相談してもしょうがない、弱みを見せたくない、いや心配させたくないんだ、など・・・ということでしょうか。悲しいねえ・・・。
きっと悩みはそれこそ「個性的」でしょう。お互い共有できない個人的な問題を、その意味では「同じように」抱えている、むしろ時には悟られないようにしている・・・。
お金じゃないよ、人生は、と嘯いてみても、お金(経済的理由)で追い詰められること、困ることは、圧倒的に多く、お金があれば解決することも増加させられています。
というか生存に必要な条件までがお金(経済)の対象となり、衣・食・住はもちろんのこと、水や伝達、安全、健康その他、生きることの条件(インフラ)は何もかも商品化(民営化)されようとしています。「悩みの解決」すら商品化されつつあるのかも。
・・・という「分析」も「一般論」であり、個別化・個人化した分断された99%の「一人ひとり」には簡単には届かないんだろうなあ。・・・「それは、そうかもしれない、いやそうだろうけど、まずは俺の目の前の個人的問題をやっつけないと・・・」というように。
仕方ないです。全くその通り、そう感じますから私だって。・・・それでも何かしら「共感」、いや、もっと手前でも「あの感じはなんだろう?わかることはできるのだろうか?」みたいな気持ちを「お互い」に持とうとすることが出来るといいんだろうなあ・・・とギリギリで思います。どこか気持ちの「余裕」がないと難しく、そしてまさにそんな「余裕」を奪うのが、「この世界」の「分断」なのだろうけど。
それでも、きっと、そんな気持ちの「芽」はみんな持ってるんだろうと思います。あの村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(1979年)では、ニーチェの言葉がかなり印象的に引用されています。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」
・・・そんな本が今や世界中で翻訳され、世界中で読まれているわけです。「個人的な」事柄こそ、きっと「共感」の「芽」だろうし、むしろ、そこがあってこそ繋がる可能性があるのうだろうなあ、と思うのです。自分が苦しいときはたぶん他の人も苦しい、もっと苦しいだろう・・・と。
それでも、99%は力を合わせれば、世界を自分たちのものにできるはずだから!