そりゃ誰だって、自分のところ、自分の場所、自分の地点からしか「世界」を見ることではできないですよね。そうだと思います。それでも本を読んだり、想像力を働かせることができて、「ひょっとしたら、そういう見方だけが世界ではないのかもな?」と思うことはあるでしょう。
何回か、「世界」のあり方が、つまり自分から見える「世界」が変わった(拡がった)ことがあります。
一つは、初めての海外旅行。大韓航空、往復12万5000円のヨーロッパ(行きは南回りで30時間、帰りはアンカレッジ〜ソウル〜成田)の旅を、司法試験受かって、バイトして、26歳のときに行きましたが、「ああ、外国ってほんとあるんだ」と。
次は、実際に弁護士になって、これまでの自分が生きてきた「階層」とは異なる世界の人々に接したとき。覚せい剤常習者、大金持ち、暴力団員、芸能人(昔、憧れていたミュージシャン)、活動家、サラ金業者・闇金業者、そして、そこから借金する人たち、そして、超過滞在の外国人、ホームレス状態の人たち等々・・・。
実際、弁護士にならなかったら、知り合いにも、親しくもならなかったような人たちと接点が持て、ときに深入りし、なかよくなり、熱くなり・・・いずれにせよ自分の「世界」がかなり拡がったなあ、な〜んもわかってなかったなあ、と思いました。
まあ、わからないまま、すませたい、という人たちも多いのかな。もしくは、そんな「世界」のあり方なんて、気がつかないか、あくまでも「情報」でしかない、というところなのでしょう。
実際、その地域、その学歴、その勤め先などに規定された、つまり「限定」された「世界」で一生を終える場合も多いのだろうな、と思います。そういう人たちにとっては、他の「世界」の住人は「他者」であり「客体」であり、一緒に何かに取り組んだり、笑いあったり、ときに喧嘩したりするような「仲間」ではないのでしょう。
なかなか、自分の見方と違う「世界」が本当にある、ということを認識することは難しいことです。テレビは、あたかも世界を映し出すようで、かなり「限定」された世界観で編集されたものだし、ネットは自分による、自分のための、自分の好きなチョイスになるだけ、になりがちです。
「この辺り(東京だと世田谷、目黒、品川など)に住んでいるとわからないの・・・」という相対的に恵まれた、それでも自分の見方に一定の疑問を持っている人たちもいます。ちょっと、はみ出せば、すぐに見えるのにね、すぐ隣に歩いているのに、とは思いますが、仕方ないことなのでしょう。
自分の「世界」が、「平和」で、「豊か」で、自分の仲間たちは、まあまあ世間並みの苦労がある程度、未だに、かつての「一億総中流」的な世界観で満ち足りている人にとっては、どこか遠くにある不幸な風景は自分とは関係のない、遠い「情報」なのでしょう。
・・・しかし、本当に自分の見えている「世界」が、現実の世界なのか?この疑問は常に持った方がいいと私は思います。そうではない可能性も高い、と思うからです。現に私は、気づかない、狭い世界に、20代半ばまでいました。今だってわかっているとは思えません。だから、世界を知りたいと思います。それは、そこに目をそらしたいような現実と共に、大きな可能性と、そして、まだ知らない仲間たちがきっといると思うからです。
狭い「世界」しか見ていない、その見方を、偏見というのだと思います。そこから抜け出すのもいいんじゃないかなあ?!