自分の中のナショナリズムを俯瞰する(努力をする) | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

ブログの説明を入力します。

 自分の国が好き!という愛国心は誰の中にもあります・・・ってそうでしょうか?「自分の国」って?そして、そもそも「国」って?

 トートロジカルな定義としてナショナリズムは、「ネーションを尊重する規範・態度」ということで(『ナショナリズム論・入門』大澤真幸・姜尚中他)、ネーション=国家の存在が前提となるので、基本、19世紀以降、国民国家が成立してからの概念ということのようです。

 一方、ナショナリストは、古(いにしえ)のストーリーに国家の起源を見出そうという心性があるようです。この点、『想像された共同体』のベネディクト・アンダーソンは、「歴史家の客観的な目には国民(ネーション)は近代的現象に見えるのに、ナショナリストの主観的な目にはそれはきわめて古い存在に見える。・・・ナショナリズムという観念に内在する人々は、ネーションの起源を、遥かな過去に求めようとする顕著な傾向がある。」旨指摘しているとのことですが(前同書)、概ねその通りだと思います。

 大澤真幸さんは、「そもそも歴史(学)への関心自体が、ナショナリズムに深く規定されていたのではないだろうか。」と指摘しています。少なくとも「教科書」は常にそのようなナショナル史(国家単位の権力史)としてのバイアス攻撃に国家自体から晒されていることは確かです。

 客観的にいえば、「故郷に愛着がある」「自分が生まれた地域・同郷の人に惹かれる」いう意味を超えて、「国家」に対する尊重ということを認めるという感じ方が、自然に備わることはない、と思います。

 アンダーソンが「想像された」と定義したのは、「どんなに小さなネーションでも、それを構成する個々人は、他の大多数のメンバーを直接には知らず、間接的に知る機会すらもたない。にもかかわらず、ネーションのメンバーは互いに同朋意識をもっている。ネーションは、この意味でずばぬけて抽象的であり、それが実在するとすれば、想像においてのみだ。」(前書)という意味であり、つまりは、ナショナリズムとは、かなり「抽象的」で「想像的」なもの、ということだと思います。「具体的」で「実在的」な知っている場所・知っている人に対する親近感を超える不可思議なもの、ということです。

 このような人類にとって新しい概念(ナショナリストは「違う」と言うのでしょうが・・・)が、誰に利用価値があるかといえば、やはり国家権力を統治する者、利用する者にとってでしょう。

 アーネスト・ゲルナーという学者によれば、「ナショナリズムとは、政治的単位と文化的な単位が合致すべきだとする政治原理」ということであり、より露骨に、その政治性を捉えていると思います。

 特に誰か際立った主張があったわけではなく生じているという点でナショナリズムとキャピタリズム(資本主義)は、どうしても分析的・受動的なアプローチというか観察するように意識しないと、まるで初めから生じているような気がしてきます。

 しかし、自分の中にも教育やメディアなどで「刷り込まれている」可能性のあるナショナリズムを、この時代、改めて俯瞰してみる、その努力をすべきではないでしょうか。もちろん、宗教的な心性は世界中、どこにでもあると思いますし、それ自体構わないともいえますが、そうならそうであると、ある程度、自分の中のナショナリズムを客観視したいと思います。

 案外、たいした根拠なく自分の国に依拠する心性が作られていたりして。

 この間、ヘイトスピーチの問題や自衛権をめぐる改憲議論、「日本会議」の影響力、さらには領土問題など様々、ナショナリズムを考えさせられる問題が生じています。決定的に重要なのは、ナショナリズムは一国の中の「階級」的対立をごまかす作用を持つ、ということで、この時代、やはり権力にとっては大いに利用価値がある、ということです。

 「森川さんにも、やっぱ、日本ってあるでしょ?」とか「君にはまったくナショナリズムはないでんしょうね」とか言われますが、自分の中にもないとは言い切れない、この不可思議な意識=ナショナリズムと、階級的な立ち位置の自己認識との関係を「意識的」に意識することは、今、大事だと思うのです。