難しい問題です。しかも、私は、報道上の事実しか知りません。だけど、何も言わないわけにはいかない。
「民族差別的な言動を繰り返すヘイトスピーチが行われる可能性が高いとして、川崎市から管理する公園の使用を認められなかった男性らのグループが5日、市内の別の場所でデモを予定していましたが、グループの活動に反対する人たちと激しく言い争う状況になり、デモは中止になりました。」(NHKニュースウェブ6/5)
中止になった経緯については「現場には、デモでヘイトスピーチが行われる可能性が高いとして反対する人たちおよそ数百人も集まり、にらみ合ったり、激しく言い争ったりする状況になりました。このため警察が、主催者側に『デモを実施すると危険な状態になる』と説明したところ、主催者側がデモの中止を決めたということです。」とのことです(同上)。
私は、許しがたいヘイトスピーチ=差別言動が、民衆の力で制圧された、という点については、素晴らしいことだと思います。
問題は、ヘイトスピーチ規制法の施行と警察権力の動きです。私はヘイトスピーチ規制法については反対です。どうしても法により自由を規制する、というあり方に権力による濫用の可能性を危惧するからです。
その意味で、ヘイトスピーチを民衆の力で止めた、というのであれば、それはあるべきことだし、素晴らしいことだと思います。警察権力のコントロールがなければ尚更です。
私は、一般論的に「表現の自由の侵害」として整理することには限界があると思います。繰り返しますが、ヘイトスピーチを・民衆の力で・制圧することは素晴らしいと思う、ということであり、それを、表現の自由が・他の市民により侵害されたから不当、と抽象化し整理することはブルジョア憲法的な限界だということです。
ですので、これまでも関わってきた、反天皇制の行動や理解がされない頃のホームレスの為のデモ、そしてサミット反対のデモなど、これらがいわゆる右翼団体等に妨害にあい、阻止されるようなことがあれば、それは極めて不当と考えます。
つまり、私は、この時代、価値相対主義的で、一般論的な思想・言論は、その有効性を失い、自己の立場を選択・決定することが求められているのだと強く感じます。
ヘイトスピーチには反対ですが、ヘイトスピーチ規制法には賛成しかねるし、反資本主義・新自由主義のデモや集会への妨害は許すことはできません。民間勢力によるものでも、国家権力によるものであっても。
現時点では、合法暴力を独占する警察らの動き方で、何が暴力であり、何が非暴力になるかは決まると思いますが、別に、暴力/非暴力は決定的に重要なわけでもないと思っています。
今回の「事件」で重要なのは、警察が恣意的に、あたかもバルブを緩めたり閉めたりして、デモを自由にコントロールすることが、今後、「私たちの」デモでも行われないか、ということだと思います。
本質的に排外主義的なナショナリズムに反対し、近隣国を含め、世界の民衆労働者、そして国内での分断を断ち切り、99%の階級的連帯を希求する「私たち」のデモが、今後、不当に規制されないかが問題だと思っています。ヘイトスピーチとして直接的ではないにしても、たとえば、「過激派」規定(レッテル貼り)の下に「一般市民」による制圧を促し、それを肯定し、それを下支えするような警察権力の動き・メディアを利用したそのような「風潮」の惹起が招かれないかを危惧します。