空から降ってくる災い 原爆 司法改革 奨学金・・・ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 先日、オバマ大統領が、まるで「天災」のように、広島への米軍による原爆投下を「空から・死が・降ってきた」と表現しました。

 責任回避の典型的文例ですね。客観描写。落雷か、隕石か・・。原子力爆弾を開発し、実用化し、落下目標を定め、投下を決定し、命令し、実行したのは、すべて政府と軍隊です。

 その辺りを曖昧化し、主体をはずし、自分の位置をごまかす・・・。この「手法」で、まず、思い出したのは、弁護士激増政策=司法改革です。

 弁護士を激増させるという政策は、国家権力の政策ですが、弁護士会の執行部は、これを「推進する」立場に、明確に立ったのであり、主体的な責任を負う立場にあります。このことは、少なくとも、当時、賛成側の「執行部派」だった人でも、比較的に正直、素直な弁護士は認めます。まあ、否定しようないからなあ。

 しかし、未だ「公式」の場面では、認めません。現在、弁護士の現実として、なるのに金がかかりすぎること、なっても仕事/弁護士当りが激減していること、だから、法曹志望者が激減していること、という司法の惨状は「常識」になりつつあります。これは、弁護士激増が、闘う弁護士会の自治破壊を狙っていると当初から反対していた、私たちが、口を酸っぱくするほど主張した「未来」です。

 それでも、現執行部は責任を認めません。ここで「オバマ文法」が用いられます。つまり、「激増の結果、弊害が生じている。よって、なんとかしなければならない」と。

 近時、とりあげられている奨学金返済問題も、まるで、大学の学費がここまで高騰していること自体は「天災」のように語られている点で同じだと思います。私は80年代のダメダメ・ノンポリ学生でしたが、それでも、学費値上げ反対の集会に当時参加し、多くの友たちと想いを一緒にしました。

 
 人間社会の物事で、天災はそれほど多くない、です。どこかで、誰か、つまり人が決めて行っています。その責任の曖昧化にごまかされずに、やはり責任をはっきりさせることは、今後のこと、未来のために必要なことではないでしょうか。

 なんか、「天災化」する方が楽というか、どこか認めたくない「あの時、自分も適当にスルーして、つまり容認しちゃった」みたいな感覚をごまかす作用があるように思いますけど、責任を明確にする作業をしないと、原発事故も「天災」、戦争も「天災」、などなど、結局は、同じ過ちを繰り返しても、誰も責任をとらず、つまりは、よき未来に向かわない気がします。

 キツイことですが、誰が、何故、あの時、ああしたのか/しなかったのか、を明確にする、そして、これからも明確にするように生きることは大事でしょう。自分の作為/不作為の責任を含めて。