「もし現在の二つの世界の対立に直面して、なお中立の可能性を信じる者があるとするならば、その現実の情勢の認識の欠如に驚く外はない。さらにわれわれはその道徳的信念と勇気の欠如を批判せざるを得ない。けだし善と悪、正と不正、自由と隷従との間にはなんら中立も妥協もあり得ないからである。かりに、隣家に強盗が侵入して婦女子を脅かしている場合において、われわれはかかり合いになるのを恐れて、これを黙過することができるであろうか。
わがインテリゲンチャの平和論や全面講和論くらい、その真理への不忠実と倫理的無確信を暴露しているものはない。彼等の中のある者は、真理とか平和とかの抽象的な言辞によって自己の主張を粉飾する。もし彼等が真に真理と平和に忠実ならば、共産主義ではない限り平和条約や安全保障条約に批判を加える前に、それ以上の熱意をもってまず共産主義の理念及びこれを奉ずる国々の現実に批判を向けなればならないはずである。」
これは、『裁判所時報』1952年1月1日号の最高裁長官田中耕太郎氏の「信念の辞」だそう。
共産主義に対する恐るべき偏見。これが、「思想・良心の自由」や「表現の自由」などを謳った「新」憲法下での最高裁長官の公的な思想表明です。
このような人物が最高裁長官に選ばれる仕組みが日本国憲法の司法制度、ということにもなります。性格としては、ブルジョア憲法として規定されざるを得ない日本国憲法下の司法の現実であり、限界ということでしょう。
これは、田中耕太郎最高裁長官時代だけではなく、その後、現在まで、司法の性格を規定していると思います。未だ、アナーキスト、共産主義者、などの事件は、「最初から」警備法廷を指定されます。裁判所のあからさまな偏見です。
そもそも、裁判官になる人間の「教養」として、幅の広い、自由な思想が行われている保障はなく、むしろ、未だ権力的に統制されていることは明らかと思われます。
司法=裁判所というのは、原理的にそういう組織なのかもしれません。資本主義体制なら資本主義の裁判所、共産主義体制なら共産主義の裁判所。そういう「限界」を頭に入れており、甘い「幻想」を持たずに、そこで闘うのが弁護士ということでしょうか。
もちろん、「職業・資格」なんて人格的存在の一部に過ぎませんからね。弁護士という部分を利用した闘いとしては、ということになります。人格的な全存在をかけて生きるということは、時にあからさまに「思想をかけて」ということになるのでしょう。
未だどっちつかずの、非決定的な立場に立つことを「自由」と考えている=洗脳されている人々も多くいると思います。一方、その洗脳に気がつき、突破を試み、自分の考えを持つ=思想を持って行動しようという人も圧倒的に増えてきていると思います。
裁判所。最高裁。「まだ、最高裁がある」・・・それを限界と認識しつつ、あの砦のような建物を「自分たちの裁判所」にするために闘いましょう。それは、思想と思想の闘いであり、「中立の可能性」はない、という点では、田中耕太郎氏の認識に賛同します。