今日、弁護士になった頃の「仕事」の選び方についての話になりました。25年も前のことですけど。
その頃、私が思ったのは、弁護士の中でも、なかなか他の弁護士がやらないようなことをやろう、と思いました。理由は二つ。
一つは、弁護士というのは、そういうものだと思っていた、ということ。つまり、多数が見向きもしない、少数者、偏見を持たれた人々などの仕事を憲法の「個人の尊厳」という観点から、やるのが弁護士の本懐だ!という青臭い想い。
そして、もう一つは、誰もやらないような分野なら、俺でも役にたつかもしんない?という、消極的な想いです。
ということで、具体的に、携わったのは「秋の嵐」という反天皇制のグループの公安事件であり、そこから派生した形で、関わることになったホームレスと呼ばれた人たちの事件・相談業務です。
「想い」もあったけども、そもそも、そういう「ハジかれた」人たちとウマがあった、というのもあります。意気投合したり、ノリが一緒だったり、楽しかったりね。
「過激派」とレッテルを貼られ、「ホームレス」とレッテルを貼られ、「犯罪者」に仕立て上げられたり、「排除」されたり、散々な目にあう人たちですけどね。
大晦日の宮下公園の炊き出しで一緒にギター弾いたり、新宿の地下道のバリケードの中から一緒に排除されたり、新宿西口のダンボール村で打ち合わせしたり・・・そういうのが楽しいと感じるか、どうか。
この辺りの感覚は、「弁護士の資質」として重要でしょうね。あ、まあ、別に、ビジネスローヤーには関係ないでしょうけど。
まあ、弁護士ってそういうものだと思っていたわけです。そういうものというのは、誰にも相手にされない少数の立場に立つ仕事、ということです。実際、90年台の半ば頃、「え?ホームレスの仕事しているの? あいつら好きでやってんでしょ? よくやるねえ」みたいな偏見が弁護士の先輩たちの間でも強く、弁護士でも関わる人は、ほとんどいなかったと思います。
まあ、だからやろうか!と思ったわけですけどね。
今だと、なんかそういう「弁護士像」って成立しないんでしょうかね?、新自由主義=司法改革攻撃で。
逆に少数者ではなく、ホームレス状態に代表される経済的困窮者は圧倒的に数において増えていると思います。だから、「少数派の弁護士」である必要はないのですが、「見せかけの多数派」に抗する、メディアや議会制民主主義によって「救われない」「掬われない」側の「見せかけの少数派」である99%の人々側に立ちきるのが、弁護士のあり方だと改めて思います。自分も食ってくのが大変な攻撃を受けていますけどね。なんとか踏ん張って・・・。
初心忘るべからず、ってことですね。 メディアの作る「流れ」に流されないように。サミット反対、オバマ訪広弾劾、刑事訴訟法改悪反対、薄汚れたオリンピック反対!