今、私たちの目の前の現実・・・としての暴力国家 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 普段、自由とか公平とか言っている弁護士に、「いや、俺は『過激派』の弁護なんてやりたくないよ~」と言われたことがあります。まあ、それが本音だと思いますし、そんなもんだと思います。・・・これまで何度も、そういう経験をしてきました。

 ただ、それは、実際には「自由」とか「公平」とかを見つめたくない、つまりは現実に自由や公平が問われる場面には出くわしたくない、というありがちな発想であり、褒められたものではないと思います、私としては。

 弁護士になった頃には、私も同じようなものでした。たまたま、天皇制に異議を唱えるモヒカンたちグループ(秋の嵐)のチラシが回ってこなければ・・・。

 「何だって」言ってもいいのが思想や表現の自由のはず・・だけど、実際には、タブーが沢山あり、「建前」として自由の「原則」や「主義」を押しつぶしように国家権力が逮捕・勾留=暴力を行使する現実を知りました、それも弁護士になって1、2ヶ月で・・・1991年ですね。

 レーニンは「民主制は、少数者が多数者に服従することと同じではない。民主制は、少数者の多数者への服従を認める国家、すなわち、ある階級が他の階級に対して、住民の一部分が他の住民に対して、系統的に暴力を行使するための組織なのである。(『国家と革命』)」と述べていること対し、白井聡さんが、きっちり解説してくれています。

 「民主制とはそのようなもの(*「原則」や「主義」)ではなく、「制度」や「機構」であり、もっと端的に言えば「国家」や暴力行使のための「組織」であるということである。要するに、民主制とは「観念」ではなく「物質」である。民主制は、「原則・主義」たることを欲しているにもかかわらず、実際には「物質」的な「機構」ないし「装置」であるにすぎない、ということをレーニンはここで言っている。(『未完のレーニン』)」
 
 さらに解説する必要もないと思いますけど、案外、わかっているようでわかっていない(わかりたくない?)現実=民主主義とは「暴力そのもの」である、ということ、です。これを認めなければ、「自由」や「公平」なんて、絵に描いた餅ってことを弁護士なりたてでガツーンと直面したわけです。「警察(=国家権力)って気に食わない奴はテキトーに逮捕するんだ?!」って。


 私の「武器」(であり弱点?)は、「素直」なことだと思っています。当時もアナーキーで魅力的な「過激派」の弁護を引き受けないなんて「俺って観念だけの日和見なんじゃないか?!原則的に飛び出さなきゃいけないんじゃないか!?」と感じたのも事実・・・まあ、これ自体、「青臭い」わけですけどね・・・。

 ともかく、時を経て、国家の暴力主義は露骨になってきています・・・見えない人には未だに見えないかもしれませんけど。国家は、案外、「合法」を好みます、つまり、法を作って暴力を肯定するようにするのです、「安保法」、そして「改悪刑事訴訟法」・・・ナチスの1933年のように。

 素直に現実を見ましょう・・・テレビを見ててもわからないかもしれない・・・けど、暴力は暴力。当たり前ですけど、警察のやることは基本、暴力です、逮捕とか、監禁(勾留)とか、そもそも銃をぶらさげて歩くとか。

 そういう現実に目をつぶり、建前だけの自由を唱えていても始まらない。

 この「民主主義」の現実=暴力行使のための組織である、ことを認めた上で、いろいろ考え、行動しましょう。